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この記事の目次
「主に恵まれなかった」沮授
ここまで見て頂ければ察して頂けるかと思いますが、筆者の考えとしては沮授は「主に恵まれなかった」人物ではなく「主を間違えた」人物のイメージです。袁紹はいずれ自らが皇帝になろうとしていた、そのための考えがあった。
そこに至るまでに優秀な人材が欲しかった、それに沮授と言う人物は相応しかった。しかし二人の考えは違った。
沮授は当時としては当然のこととは言え、献帝を迎え入れるべきと思い、それは袁紹としては、己の野心を遂げるためにはできないことだった……そこから考えの違いが出てきて、段々と沮授は遠ざけられるようになった……のではないかと思うのです。
沮授と袁紹との考えの違い
とは言え、決して沮授が主の考えに寄り添えなかった、という訳ではありません。沮授はあくまで地方の豪族。つまり冀州の土地が何よりも大事であり、主君にもそれを求めてしまう。そう思うと「皇帝」よりも「地元を大事にしてくれる主」を求めていたのではないでしょうか。
そしてそれは当時の価値観としては決しておかしくはなかったと思います。あくまで二人の考えは違い、相容れなかった……それが袁紹と沮授の答えではなかったのかと、筆者は思います。
袁紹のカリスマ
最後にちょっと袁紹について。袁紹は後継者をはっきりとしていなかったから滅んだ=袁紹が悪い、のように言われることもありますが、袁紹は突然亡くなるので、もしかしたら自分がまだまだいるから大丈夫、と思っていた節があります。
そして息子たちのお家騒動ですが、ここで家臣団が割れて揉め始めます……ここ、ポイント。後継者問題と言う火種を残してしまったのは袁紹の不手際ですが、袁紹がいなくなると急に揉める、つまり袁紹が生きていた頃は揉めなかったと考えると、袁紹は曹操にも負けないカリスマで、ギリギリのところで家臣たちを繋ぎとめていたのだな……と袁紹のカリスマについて考えてみたのですが、どうでしょうか?
曹操には及ばなかったとしても袁紹はあの時代を生き抜けるほどのカリスマはあった、そう思います。
三国志ライター センのひとりごと
今回は沮授について、袁紹について、少し話させて頂きました。沮授が主に恵まれなかった、とする根拠を突き詰めると、どうしても「袁紹が無能だった」という点に行き当たると思います。
しかし袁紹を知れば知るほど、決して無能ではありません。そうなると沮授の立場としては……という考察でしたが、いかがだったでしょうか。もちろんこれはある一考察でしかありません、しかしこのように「今までの武将のイメージ」を「覆してみる」というのもなかなか楽しいものです。皆さんもぜひ「今までの武将イメージ」について考えて見て下さいね。
参考文献:魏書袁紹伝 後漢書 袁紹伝
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