寿永4年(西暦1185年)平治の乱以来、20年の栄華を誇った平家一門は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ海の藻屑と消えました。
「奢る平家」というように、政治を私物化した為、天下の恨みを買い源氏に敗れたとされる平家ですが、その恨みの背景には当時、銭の病と呼ばれた事態が存在していました。今回は平家を滅亡に追い込んだ恐るべき「銭の病」について考えます。
平清盛が宋銭を利用して富を築く
日本では平安時代の前期頃まで律令制の下貨幣経済への移行が進められ、皇朝十二銭という様々な貨幣が発行されていました。しかし、貨幣を鋳造する為の銅が不足し、物品の交換に見合う程の銅銭を発行する事が出来ず、荘園が発達して大和朝廷が弱体化すると事実上貨幣経済が崩壊します。
そして、お金に代わるものとして、東国では絹、西国では米を指定し、それぞれの品物との交換レートを定め、政府が定めた市で交易させるようになります。これを沽価と言いました。
平安時代の後期、西暦960年、中国で宋王朝が建国すると、大量の銅銭を発行して商業に使用するようになり、宋王朝と交易があるアジア周辺国にも宋銭が伝わりました。
当初、日本は仏具に必要な銅が不足していたので、宋銭を鋳潰して仏具に造り替えていたのですが、伊勢平氏の棟梁、平清盛が宋銭に目を付けます。
宋との交易拠点である太宰府を抑えていた伊勢平氏は大量の宋銭を手に入れられるので、清盛は宋銭を日本で流通させて主要な通貨にし富を得ようと考えたのです。
宋銭のせいで絹経済の東国がインフレに苦しむ
清盛の目論見通り、宋銭は急速に日本社会に浸透し、造幣局になった平家には莫大な利益が転がり込んできます。しかし、宋銭の流通はそれまで絹を基準にして租税や市場の物品価格を統制していた大和朝廷の経済政策に深刻な打撃を与えました。
絹と宋銭が競合して宋銭が優位になると、必然的に絹の価値が下落して絹を使用して商品を買う時にインフレが加速してしまうからです。そして、絹を貨幣として使っていたのは主に東国で、源氏の拠点でしたから反平家の勢力は東国の源氏系の武士が多くなっていきました。
もっとも、東国には坂東八平氏のように平家もいましたし、貴族や荘園領主は年貢として受け取った絹や米を宋銭に換えないと価値が下がる事になり、宋銭の供給を独占する平家を恨むようになるのです。
銭の病を治療できない清盛
宋銭の流通を続けようとする清盛に対し、多くの荘園を持つ後白河法皇は荘園領主の代表として宋銭の流通に反対、確執が起こります。
治承3年(1179年)後白河法皇の命令を受けて松殿基房や九条兼実が「宋銭は日本の貨幣ではなく贋金と同じである」として宋銭流通を禁ずるように主張。それに対し、清盛や高倉天皇、土御門通親がむしろ現状を受け入れて宋銭の流通を公認すべきと主張して対立、同年に清盛は後白河法皇を幽閉してしまうのです。
もちろん、清盛の後白河法皇幽閉は、宋銭の事だけが原因ではありませんが、幽閉原因の一つにはなりました。
さて、庶民の生活は何も考えていないように見える平清盛ですが彼には秘策がありました。インフレが起きるのは宋銭の供給が足りないのであって、もっと大量の宋銭を中国から輸入すれば、宋銭の価値が低下して絹の価格とバランスし、インフレは収まると見たのです。
これは正しい判断でしたが、清盛は結局、宋銭の輸入に失敗します。当時の船は季節風を頼りにしないと長距離移動できない帆船でしたが、この季節風は9月から10月に吹きました。
ところが、日本で一番宋銭が必要とされるのは農作物が収穫されて年貢を支払う7月くらいであり、その頃には、まだ季節風が吹いてなく、平家の船は中国から戻れませんでした。
宋銭不足は日本経済を直撃、「銭の病」と記録される深刻なインフレを引き起こしました。平清盛は決定的に経済政策に失敗し、後白河法皇を幽閉した事もあり、全国で平家への不満が爆発。治承4年(1180年)以仁王の挙兵を契機として反平家の蜂起が各地で頻発する事になります。銭の病は平家の滅亡を呼び込んだのです。
平家が滅んでも宋銭は滅びなかった
平清盛は治承5年(1181年)原因不明の熱病で64歳で病死します。しかし、その病状から清盛は日宋貿易を通じて入って来たマラリアに罹患して死んだという説もあり、もしそうだとすると宋銭で富を築いた平清盛に相応しい最期とも言えますね。
清盛没後の平家一門は、源義仲に、そして源頼朝に押され続け寿永4年に壇ノ浦で海の藻屑になって滅んでしまいました。
平家滅亡後の文治3年(1187年)三河守源範頼の意見と言う形で摂政になった九条兼実が流通停止を命じられます。しかし、その頃には朝廷内部にも絹から宋銭に財政運営の要を切り替えるべきという意見が上り、建久3年(1192年)には、宋銭の沽価を定めた銭直法が制定されます。
ところが反対意見も根強く翌年には、伊勢神宮・宇佐神宮の遷宮工事の際に必要になる役夫工米の見通しを確実にするべく、改めて宋銭停止令が出ました。
これで、宋銭は停止されるかと思いきや、鎌倉時代に入ると宋銭はますます流通し相対的に絹の価格低下は止まりません。そして朝廷も宋銭の方が絹よりも遥かに利便性が高い事を認め、遂に絹は貨幣の地位を追われていくのです。
皮肉にも、宋銭に目を付けた清盛の先見の明は、鎌倉時代に証明された事になりました。
日本史ライターkawausoの独り言
銭の病は今で言うインフレーションの事と考えられますが、宋銭に目をつけて、より経済を活性化しようとした平清盛の経済感覚はスゴイの一言です。結果、源義経に滅ぼされた平家ですが、清盛が導入した宋銭は滅びるどころか、逆に貨幣としての絹を駆逐して貨幣の地位にのし上がったのですからね。
参考文献:ゼロからやりなおし日本史見るだけノート 宝島社
参考:Wikipedia