近年、歴史教書の改定が進み、「鎖国」という言葉が事実に即していないとして消えようとしています。実際に江戸時代には、長崎、薩摩、対馬、松前の4つの窓口を開き、オランダ、中国、朝鮮、アイヌを通じて外と交易をしていました。
そのため鎖国というより、ヒトとモノの出入を幕府の統制下におく統制貿易という方が正しいでしょう。でも、ここには鎖国は悪であり開国は善であるという一方的な先入観があるように思います。そこで今回は「鎖国」がもたらした光の部分、江戸時代の平等社会について解説しましょう。
この記事の目次
銀の産出量が減少し幕府は統制貿易に転じる
徳川幕府が開いた頃の17世紀初頭は、アジア海域交易の全盛期でした。ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が積極的にアジアの海域に進出して香辛料、木綿、生糸、銀を交易品とする世界市場に強くコミットしていた時代だったのです。
17世紀初頭の日本の銀産出量はスペイン領のメキシコないしはペルーと肩を並べる程で鉱業の総産出高はGDPの4%もありました。しかし鉱山ブームは短く、銀の生産は1620年代にピークを迎えた後は急激に縮小していきます。そして、1630年代になると幕府は、後の歴史家から「鎖国」と呼ばれる法令を次々と出していきました。
もちろん、それは国を完全に閉ざす事を意味しません。
交易面では、四つの口が存在し、そこを通じてオランダ、中国、朝鮮、アイヌの商人と交易がなされました。しかし、人と物の出入りを幕府の統制下においた政策は、それまでの自由・無制限なアジア交易を決定的に縮小させ終焉させます。
実際に1630年以降貿易量は減少し19世紀初頭まで日本が事実上の閉鎖経済になったのは紛れもない事実だと抑えておく必要があります。
一時経済は停滞するが農業と非農業生産の増加で相殺
江戸幕府の閉鎖経済は、外国貿易の急減と人口増加という17世紀経済の大きな負担をもたらしました。しかし、これらのマイナス要因は、同じ時期に生じた農業産出量の拡大と都市化に牽引された非農産物の増加でほぼ相殺されます。
他方、生糸の輸入量減少により国内の絹織物産業が圧迫されますが、18世紀前半から国内の製糸業が再興し、各地で農村に現金収入をもたらす農村工業として定着し生糸の生産力は向上しました。この農村工業の興隆が新たな時代を特徴づける事になります。
江戸中期に格差縮小の動きが起きる
1721年頃に3000万人で人口の増加が止まると、人口の都市農村間の配分に変化が起きました。
都市人口統計を見ると、5万人以上の大都市に住む人口は1750年から1873年までに大幅に減少し、1万から5万人の都市は僅かに上昇。逆に2500人から1万人規模の小都市が大幅に増加しました。
通常、社会の格差が拡大すると大都市人口が増加し、逆に中小規模の都市人口は減少していきます。富が大都市に集中し仕事を求めて地方人口が大都市に移動するからです。
江戸時代の日本では、この逆の現象が起きたのですから社会の格差が縮小したという事になります。では江戸中期の日本では何が起きたのでしょう?
地方産業が興隆、都市同業者を圧倒
この都市人口の変化の背景には、地域間交易ネットワークに生じた構造変化がありました。18世紀の中葉からは、食品加工、製紙、繊維などの産業が各地で興り拡大、地方の工業や商業が都市の同業者に競り勝つようになったのです。
特に大きな影響を受けたのが大坂を頂点とする流通システムで、18世紀前半までは、地方経済の産物は大坂問屋商人を通して大坂市場へ輸出され、そこからさらに江戸や他の消費市場に配送されていました。
大坂商人は、ここで中間搾取をするわけですが、1750年以降になると地方の荷主が、大坂の問屋を経由せず、江戸や他の地方都市と直接取引を開始したのです。その結果、江戸後期の全国流通システムは、江戸と大坂の2つをハブとする形へと再編されます。
どうして、こんな事が可能になったのか?
それは、全国の藩が財政改善の為に殖産興業を盛んにすべく、地元産業を支援して保護したからでした。
さらに大きな理由は、当時300を超える藩があったにもかかわらず、大名が領国の境に税関を設ける事がなかった事です。関税障壁の無さは、地方の問屋が販売戦略を変更して再編するのを容易で簡単にしました。地方経済の台頭は、必然的に都市の大商人の富を減らす事になります。
【次のページに続きます】