八甲田雪中行軍遭難事件とは?ミスが積み重なった悲劇の山岳事故

2020年8月25日


 

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八甲田雪中行軍遭難事件(雪山)

 

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)とは、明治35年(1902年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街地から八甲田山の田代新湯(たしろしんゆ)に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件です。

 

訓練の参加者210人中、199人が死亡(うち6名は救出後に死亡)するという日本の冬季軍事訓練においてもっとも死傷者を出した事故であると同時に近代登山史でも最大級の山岳遭難事故です。しかし、この事故には自然災害だけでなく、多くの人為的ミスが積み重なっていました。

 

雪中行軍の目的

旧幕府軍敗北シーン

 

日本陸軍は明治27年(1894年)の日清戦争で冬季寒冷地(とうきかんれいち)での苦戦を強いられました。そして、清朝の次に立ち塞がるロシアとの戦いに備える為に冬季訓練が喫緊の課題になっていたのです。

 

青森歩兵第5連隊は、陸軍の冬季訓練の計画に沿い、冬のロシア軍の侵攻で青森沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能かを調査する為、青森から田代温泉の間の片道20㎞、1泊2日の予定で計画されました。

 

事前の予行演習

 

青森第5連隊の第2大隊は、明治35年(1902年)1月18日、行軍計画の立案者である神成大尉(かんなりたいい)の指揮で予行演習を行います。この時は140名、うちカンジキ隊20名の将兵とソリ一台で屯営から小峠間片道9㎞を往復したもので、好天に恵まれて成功しました。

 

報告を受けた大隊長の山口少佐は、これならば屯営から田代温泉までは1日で踏破可能(とうはかのう)と判断。1月21日、山口大佐は行軍命令を下し、1月23日に出発する事を決定します。

 

いだてん

 

防寒装備の不足

大山巌

 

本番の行軍は210名と予行演習を90名上回る大部隊となり、1日分の食糧(米、缶詰、餅、漬物、清酒、それに(まき)と木炭、工具など合計1.2トンをソリ14台で曳く計画でした。

 

ソリの重量は一台で80㎏もあり、4人以上で曳く事になり、これに加えて行李に詰めた昼食用の弁当が1食分、、糒1日分、餅2個の各自携行が命じられ、懐炉の使用が推奨されました。

 

出発前日、同行する軍医から凍傷の予防と処置に関する事前注意があり、そこでは手指の摩擦や足踏に加え、露営ではなるべく眠らないように注意する事と指示されます。

 

ここまで読んで分る通り、青森第5連隊、第2大隊は、1日で帰還できると漠然と想定している事が分かります。

 

また防寒装備も貧弱そのものであり、特務曹長(とくむそうちょう)以上が毛糸の外套(がいとう)1着、毛糸の軍帽、ネル生地の冬軍服、軍手1(そろい)、「長脚型軍靴(ちょうきゃくがたぐんか)」「長靴型雪沓(ちょうかがたゆきぐつ)」。

 

下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1双」「短脚型軍靴(たんきゃくがたぐんか)」と冬山登山するとは思えない貧弱な装備で、特に下士兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2着を渡されただけでした。

 

特に兵卒には、凍傷により身動きが取れなくなり凍死したものが多く、もし、軍手や軍足が、もう一揃い余分に渡されていれば、凍死する兵士はずっと少なくて済んだと生還した小原伍長は答えています。

 

致命的な準備不足

 

雪中行軍が遭難した原因には、極端な情報不足の問題もありました。

 

雪中行軍部隊を率いた神成大尉が雪中行軍の指揮を任されたのは、行軍実施の3週間前であり、それは前任の担当が夫人の出産に立ち会う為に任を解かれる形になって急遽(きゅうきょ)任命されたものでした。

 

神成大尉は将校になってから雪中行軍に参加した経験はなく、前任者の離任で予備知識も持たないままに行軍の準備に入りましたが、やったのは小峠までの9㎞の日帰り行軍だけであり、全く経験というものを欠いていました。

これは、神成大尉個人の問題というより、人事を含めて引き継ぎに重きを置いていない青森第5連隊の組織的な問題でしょう。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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