曹真と言えば三国志演義被害者の会の第一人者とも言える存在。正史で見ると驚くほど優秀、曹一族の中にあってもきらりと輝く有能さは隠せない人物です(贔屓目込)。
しかしそんな曹真の上げた功績の数々はどうしてあそこまで見ない振りをされてしまったのか?
今回はそんな曹真の功績と息子たちについて、お話していきましょう。
順調な出世している曹真
正史三国志を見ていくと、曹真は順調に出世していきます。劉備との戦いで戦功をあげていき、夏侯淵が戦死した後には陳倉に駐屯。
魏の建国後は鎮西将軍となり、雍州・涼州の軍事を統括する任務を帯び、異民族や領内の反乱を鎮圧するなど、守勢、反乱鎮圧と数々の面で魏を支えた武将と言って良いでしょう。
後を託される信頼
そんな曹真は曹丕にも信頼されていました。曹丕の四友とはまた違う立場だったにも関わらず、曹丕はその死の間際に跡継ぎの曹叡の補政を陳羣、司馬懿と共に曹真にも託しています。
陳羣、司馬懿が四友だったことを考えると、曹真はその立場ではなかったものの、同じくらいに信頼を得ていたのではないかと思います。
功績を挙げていく曹真
曹真は曹叡が即位すると大将軍となり、諸葛亮の北伐を見事に防いでいます。最初の北伐では落とされた三郡を奪還、趙雲らを退け、その後には再び諸葛亮が攻め込んでくることを予見してしっかりと対処……正に名将!
その功績を認められ230年に曹真は大司馬となり様々な特権を与えられるようになりました。この時に防衛だけでなく蜀に攻め込むことを提案しますが、これには失敗。と言っても敗退ではなく、季節雨による撤退なので、大打撃を受けたということはありません。むしろ良く撤退を決意したものだとも言えるでしょう。
こんなに優秀だったのに
撤退を決意した曹真はそのまま洛陽に戻るも、重病にかかります。この際に皇帝であった曹叡が自ら見舞ったとあるので、国としても憂うべく状況だったのでしょう。
しかし曹真は回復しないまま、死去。
曹叡によって「生前の曹真は厚遇を受けた身でありながら寛容かつ謙虚であった」として元侯の諡号を送りました。曹真が武将としての有能さだけでなく、人柄までもを評価されていたことが良く分かりますね。
そんな曹真、どうして三国志演義になると功績のほとんどを無視されてしまったのでしょうか。それを説明するには、曹真の息子たちがカギとなります。
【次のページに続きます】