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五輪の政治利用始まる!1936年ベルリンオリンピック


 

近代五輪の生みの親:クーベルタン男爵

 

クーベルタンが普仏戦争で敗れたフランス人青年の体格向上の為に教育にスポーツを導入する事を思い付き、それにプラスして平和の祭典、古代オリンピックにヒントを得て立ち上げた民族とスポーツの祭典近代五輪。

 

当初こそ、費用が掛かりすぎる事やスポーツへの無理解から万博の添え物扱いだった近代五輪も、クーベルタンとIOC委員の尽力で、1912年のストックホルム大会から独立した大会として認知され、参加する国と地域が拡大していきました。

 

しかし、知名度が世界規模になった近代五輪は、強力な宣伝力を持つ媒体となり、それまで五輪に見向きもしなかった各国の政府が自国の優秀さを世界に認めさせる政治ショーとして利用するようになります。その頂点が1936年、ナチスドイツ政権下で開催された第11回ベルリンオリンピックでした。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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吹き荒れるナショナリズム

紅茶一揆(イギリスの紅茶文化)

 

第1次世界大戦の中断を挟み、1920年、第7回ベルギーアントワープ大会が開催されます。しかし、900万人もの死者を出した大戦の直後にもかかわらず、大会では参加国のナショナリズムが大爆発。水球の表彰式ではイギリスの国歌が演奏されている間中、負けた地元ベルギーのブーイングが鳴りやみませんでした。

 

この傾向は第8回フランスパリ大会でさらに激しさを増し、特にアメリカチームの傍若無人さが目立ち、ラグビーのフランス対アメリカ戦ではフランスのブーイングが鳴りやまない事態になります。

 

この頃の五輪は、各国が国の威信を賭け最強の選手を派遣し、メダルの数で自国の実力を示すスポーツの戦争に変化していたのです。初期にはあったスポーツを愛好する個人が国籍を超えてお互いを称え合う穏やかな精神は影を潜めていきました。

 

政治利用の極みベルリン五輪

 

1936年第11回大会は、ドイツのベルリンと決定しました。しかし、この決定はすんなりなされたわけではありません。当時のドイツはナチス政権下の一党独裁国で総統アドルフ・ヒトラーの支配の下ユダヤ人の迫害・差別が公然となされていたのです。

 

1933年、ウィーンのIOC委員会では、ベルリンオリンピックを許容すれば人種差別を認める事になると異論が噴出。特にアメリカのIOC委員アーネスト・リー・ヤンキーは「アメリカは役員も選手もいかなる代表も送り込むべきではないとボイコットを要求。

 

ところが、それに対し、反ユダヤ親ナチ傾向のアメリカオリンピック委員会会長のアベリー・ブランテージが「ベルリンを視察してきたが、ユダヤ人差別はなかった。そもそも政治とスポーツは別、文句があればアメリカ選手団を送り込んでヒトラーの鼻っ柱をへし折るべき」と反論し、アメリカはベルリン五輪参加を表明、ヤンキーはIOCを追放されます。

 

実はヒトラーは、当初オリンピックをユダヤ人の興行と毛嫌いし開催に前向きではありませんでしたが、オリンピックで国威発揚を狙いつつ、大会期間中はユダヤ人差別を止めるというテクニックを駆使して、イメージの悪いナチスの印象を好転させるという宣伝相、ゲッベルスの意見を採用して、急遽五輪を歓迎。

 

敗戦から復活した明るく、強く、豊かなドイツを壮大なプロパガンダで演出。世界中から来たジャーナリストの目を欺いて見せたのです。ベルリン五輪は、人種差別というナチスの暴力の陰を覆い隠す照明装置に利用されました。

 

人種差別を打ち砕いた褐色の弾丸・ジェシー・オーエンス

 

ベルリン五輪は、ギリシャからの聖火リレーやプロパガンダ記録映画オリンピア等、アーリア人種の優秀性をことさら強調する内容でした。どうもヒトラーは古代ギリシャ人をアーリア人種と考えていたようです。だからこそ、ヒトラーはドイツ人選手団が全ての競技で金メダルを取り、アーリア人種の優秀性のPRに繋げたかったのですが、陸上競技でその望みは無残に打ち砕かれます。

 

陸上アメリカ代表の黒人のジェシー・オーエンス

 

陸上のアメリカ代表で黒人のジェシー・オーエンスが100m、200m、走り幅跳び、400mの4種目で次々に優勝し、ドイツの陸上選手を沈黙させたのです。ヒトラーは憮然とした表情で終始不機嫌でしたが、スタジアムのドイツ人大観衆はジェシーをオリンピックのヒーローと称え褐色の弾丸と呼びました。

 

ここには、古代オリンピックにも通じる近代五輪の素晴らしさがあります。人種も地位も身分も無関係に汝自身の力のみで勝て!ジェシーはこの精神を体現し、観衆は歓呼の声と惜しみない賞賛を贈ったのです。

 

ジェシー・オーエンスを襲う差別

 

しかし、ベルリン五輪の英雄は祖国アメリカでは全く歓迎されませんでした。南部出身の黒人選手のジェシーはアメリカ国民の根強い黒人差別に曝され、4つもの金メダルを持ち帰りながら歓迎会もなくアメリカ大統領ルーズベルトはジェシーをホワイトハウスに招待さえしませんでした。

 

帰国後に開かれたパーティー会場のホテルでは、夫妻は貨物用のエレベーターに載せられ、黒人専用のホテルで食事させられました。

 

ジェシーの写真も活躍も南部の新聞には一文字も書かれず、帰国した彼は妻子を食べさせる為に、自動車、プロ野球選手、馬、犬と競争させられるエキシビジョンレースで見世物のような扱いを受けながら屈辱に耐えて食いつなぎ、破産まで経験しました。アメリカの歴史の暗部をジェシーの逸話は私達に教えています。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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