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戦火に消えたオリンピアン
第12回オリンピックは東京に決まっていました。NHK大河ドラマ『いだてん』でも描かれた1940年の幻のオリンピックです。しかし、日支事変の泥沼にはまっていた日本は世界の非難と戦局の拡大で五輪どころではなくなりオリンピックを返上しました。
やがて、ナチスドイツのポーランド侵略を契機に世界は6年越しの第二次世界大戦に突入、1944年のロンドン五輪も中止されます。
日本は1941年の真珠湾奇襲を契機に大東亜戦争へと突入、五輪でメダルを期待された選手たちにも召集令状が届き、38名もの日本人オリンピアンが戦没しました。その中には、ベルリン五輪のサッカー日本代表として優勝候補スウェーデンに逆転勝利した「ベルリンの奇跡」松永行、右近徳太郎、竹内悌三もいました。
もちろん、当時の日本は国民皆兵、オリンピアンだから戦地に出さないのは特別扱いで、逆差別になるかも知れません。しかし、スポーツを通し、全世界の人々に勇気と希望を与える特別な力を持った38人のオリンピアンを兵士として戦死させた事はベストだったのか?kawausoは疑問に思わざるを得ません。
kawausoの独り言
初期の手づくり五輪は、世界に認知される事で巨大な広報媒体と化し、ナショナリズムを煽る世界各国によるメダル争奪戦の巷と化しました。さらに、ユダヤ人差別を隠蔽し、ナチスドイツの国威PRにIOCが手を貸した事で、オリンピックは巨悪を延命させる手助けをする事になります。
しかし、意図しない所でオリンピックは、アーリア人種の優越を説くヒトラーのプロパガンダを粉砕、白人も黄色人も黒人も関係なく、己の力のみで勝利を掴んだ者を惜しみなく讃える人種平等の精神を育んだのです。
次回は最終回、商業化する五輪について解説します。
参考文献:ざんねんなオリンピック物語
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