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この記事の目次
情報が食い違う、赤壁の戦い
そしてここで赤壁の戦いの問題点というか、分かりにくい点を一つ。
魏の記述を見てみると赤壁の戦いは「疫病が凄かったから撤退した」「軍船を焼かれたから曹操は歩いて帰った」とあり、呉の記述を見ると「火で敵の船を焼いた」「さらに周瑜たちが追撃して曹操を撤退させた」とあります。
因みに劉備の方の記述では「劉備さまは周瑜たちと力を合わせて頑張って曹操を撤退させました」とされています。
この赤壁の戦い、正史を見てみると意見が食い違っているのが少なくありません。
「自分たちに都合の悪いことは書かなかったのでは」とも言えるでしょうが、資料として、ソースが少ないのです。そしてこれが、「色々な赤壁の戦い」が生まれる理由となっていると思います。
「赤壁の戦い」
前述したように、赤壁の戦いは資料が、そのソースが少なく、実情が分かりにくい所があります。そして一つのことに対して、色々な説が提唱されます。
「火攻めで大いに勝った」「実際には火攻めは船を焼いただけで、被害は少なかった」「撤退した理由は疫病だった」……こうなると、問題になるのは注目点です。
現代における「東南の風と火攻めでの勝利」は「火攻めで大いに勝った」ことに注目した話であり、逆に「撤退した理由は疫病だった」に注目すると「疫病で撤退しようとしていたら火をかけられた、徒歩で帰ろう」となるかもしれません。
このようにどこにスポットを当てるかで話は変わります。そう考えると三国志演義での赤壁の戦いはあくまで諸葛亮と火計に注目した話、と言えるでしょう。
「東南の風」
個人的な意見を述べると、東南の風とは諸葛亮の存在、もっと言うと劉備の存在そのものであると思っています。諸葛亮は孫権に面会した際に「どうして劉備は曹操に従わないのか」と聞かれて「我が主は王室の後裔です、どうして曹操に仕えることができましょうか」と答えます。
当時、曹操はただ強い軍を持っていただけではありません。献帝を擁立した者であり、保護した人物であり、代理人でもあり、それと戦うということは王朝を敵に回すと同義です。
しかしそこに(経歴詐称疑惑があるとはいえ)王室関係者が現れて一緒に戦おうぜ!と言ってくれました。
その存在は曹操と敵対できるだけの理由を与えてくれた、だからこそ赤壁の戦いに踏み切れた……そう、彼らこそが「東南の風という決め手」だったのではないか、と思いを馳せてしまう作者でした。
三国志ライター センのひとりごと
東南の風は、三国志演義でのキーポイントです。そしてこの場面は、諸葛亮のために用意された舞台と言っても過言ではありません。正史を読むと荒唐無稽にも見えてしまう場面ですが、盛り上がりとしてはかなりの場面であると言っても良いでしょう。
荒唐無稽、事実ではない、実際と異なる……「だとしても面白い」。そう考えると三国志も三国志演義も、より面白くなってくると思いますね。
参考文献:魏書武帝紀 呉書周瑜伝
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