赤壁の戦いで孔明が東南の風を吹かしたじゃん?あれマジらしいよ?

2015年7月24日


 

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赤壁の戦い

 

建安13(西暦208)年冬、有名な赤壁の戦いは行われました。この時、諸葛孔明が東南の風を祈祷によって起し、孫呉軍の火攻め作戦を成功に導くエピソードは、赤壁のクライマックスとして大変よく知られています。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実際は東南の風は吹いてない件について

孔明南東の風

 

ところが、実際正史である『三国志』を見ても、そんな話はどこにも載っていません。それもそのはず、これは後世の創作だからです。仮にもし諸葛孔明にそんなマジックパワーがあったなら、とっくに彼によって天下は統一されていたことでしょう。では赤壁で吹いた「東南の風」も、全くのデタラメなのでしょうか。

 

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呉書周瑜伝を調べてみると実際には吹いていた?

孔明 東南の風

 

『三国志』呉書周瑜伝には、周瑜の部下の黄蓋が火攻めを提案し、いざ攻撃を仕掛けたところ、折りよく吹いた強風に煽られ、大火が曹操軍の船団から対岸の軍営地までも焼いたことが記されています。

 

この時の両軍の位置関係を考えてみると、曹操軍は軍需補給点である烏林を背にして周瑜軍と対峙していたはずですから長江の西北岸に、周瑜軍は対面の東南岸に陣取っていたと推測されます。

 

そして炎は岸にあった曹操軍の軍営地に及んだというので、西北向きの風に煽られたことになります。このことから、赤壁の戦いの最中、しかも黄蓋が曹軍に奇襲を仕掛けたタイミングで、強い南東風が吹いたのは間違いないようです。舞台となった現在の湖北省は亜熱帯モンスーン気候に分類されます。この気候における風向きは、夏は南東風、冬は北西風が基本です。

 

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何で諸葛孔明は南東風が吹くのを知っていたの?

諸葛孔明

 

真冬に南東風が吹くのは通常考えにくいのですが、これについては諸説あり、諸葛孔明は

 

①天文暦学に精通していたので、星の動きやカレンダーから風向きを観測できた。

②易(占い)に精通していたので、10月の小春日和に南東風が吹くことを知っていた。

③地元の漁師に、ドジョウが引っくり返ってお腹を見せたら南東風が吹くと教えてもらった(赤壁地元の民間伝承)

 

などと言われています。

 

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赤壁の戦いは何月にあったの?

 

なお赤壁の戦いが『三国志演義』で10月とされているのは主に②のような理由からと思われますが、『三国志』に日時は書かれておりません。一般的には前後の記述から、旧暦12月頃だったと考えられています。

 

現代の中国気象学者の間でも支持されている説

劉琦 ゆるキャラ 三国志

 

一方、映画『レッドクリフ』では、「暖冬の年、長江の地形では、陸湖風が吹く」とより科学的な説明がされ、これは現代の中国気象学者の間でも支持されているようです。

 

「陸湖風」とは「海陸風」や「山谷風」のことです。ざっくり言うと、海や湖、川といった水辺であったり、山谷のように地形に高低差があると、気温と気圧の関係で、風向きが変化する現象が起きるのです。

 

長江の場合は「川陸風」ですが、高い山に囲まれた地形では、山谷風が加わって、強い川風と陸風が吹きます。赤壁の厳密な地点は不明とされますが、「壁」というほどなので崖がそびえていたのでしょうし、現在のその周辺地域を見ても高い崖に挟まれています。

 

しかし川風は、夜間は上流から下流(海)に向かって吹くものなので、黄蓋が奇襲した夜間において南東風が吹いたのだとすると、辻褄が合いません。また「暖冬の年」といっても、この時代は寒冷期であったそうなので、条件に当てはまるのか定かでありません。

 

中国気象庁の公式発表(!)では、前線低気圧か移動性高気圧ではないかとのことですが、可能性は微妙なところです。いずれにせよ何らかの条件が重なった結果、確かに東南の風は起きたのです。

 

確かに東南の風は起き三国志は、より面白くなった

諸葛孔明019

 

後世の考証家・裴松之は、風が吹いたのは偶然であって人の力が及んだものではないとコメントしています(『三国志』周瑜伝注)。ですが、天下分け目の戦いで「吹くはずのない風」が吹いた奇跡は、じつにドラマチックで神秘的です。

 

日本でいえば、蒙古襲来での神風や、桶狭間の合戦での豪雨と同じで、まるで天意を得たかのようです。物語的には格好の題材でしょう。

 

しかし『三国志』のままだと、天が味方したのは周瑜軍となってしまいます。蜀をヒーローにしたい『三国志演義』は、諸葛孔明に風を呼ばせることで(あるいは民間伝承を採用して)、「正義の蜀」「超人的な諸葛孔明」と一石二鳥の展開にしたのです。

 

そしてこの演出が大当たりをして、史実はさておき、人々に強い印象を残しました。沖田総司の池田屋喀血シーンとも通じるものがあります。全くあり得ない話ではなく、事実に劇的な脚色を加えたことで、現代にも残る名シーンとなったのです。

 

 

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楽凡

HN: 楽凡 自己紹介: 歴史専攻は昔の話、今は漢文で妄想するのが得意なただのOLです。 何か一言: タイムマシンが欲しいけど発明されたくない葛藤。

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