広告

清須会議を渡邊大門説を元に再構成してみた

2020年9月6日


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

渡邊大門説を元に再構成(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



秀吉を警戒し三法師を返さない信孝

中国大返し ver1(豊臣秀吉)

 

さて、後見人を下ろされた信孝は、三法師を守役の堀秀政に渡そうとはしませんでした。元々、三法師は安土城の主でしたが、、安土城が焼けてしまったので、立て直されるまで、岐阜城の信孝の下に暫時預けられていたのです。

 

しかし、清須会議以後、京都を領有し、実質的に織田家の後継者のように振る舞う秀吉を、信孝は(うと)んじるようになり、安土城が復興して、秀吉が宿老会議の決定通りに三法師を安土城に返して、堀秀政に後見させるよう促しても返事を渋るようになります。

 

さらに信孝は秀吉が、信長からもらった養子の羽柴秀勝を織田家の当主に据えるつもりではないかと疑い、それに対し秀吉は、世間の人がどう言おうと一度、養子にした秀勝を織田家に戻すつもりはないと書状で弁解しました。

 

その上で信孝に対し、清須会議の決定に従い三法師を返してもらいたいと何度も願い、また自分と勝家の不和について心配をかけている事を詫びるなどしています。

 

朝まで三国志 kawauso

 

ただ、一方で、信孝が懸念する羽柴秀吉の独断専横も事実でした。秀吉は、しばしば宿老会議の決定まで覆しており、さらには明智光秀の闕所(旧領地)を宿老会議に諮らず、独断で細川忠興やその家臣に与えるなどして、自身の与党作りに腐心していました。

 

このようなやり方には、当然柴田勝家も不満を表明していて信孝に会議の決定を守るように説得する権利が秀吉にあるか?といえば少々疑問です。

 

信孝と勝家が結託し賤ヶ岳の戦いへ

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

秀吉の京都支配に不満を持つ信孝は、自身も京都の公家や寺院に発給を行い存在感を見せる一方で、烏帽子親でもあり、織田家最大の実力者、柴田勝家に対して、自身の叔母にあたるお市の方との縁組を周旋するなどして結びつきを強めます。

 

やがて、信孝と柴田勝家は秀吉に反旗を翻し、それを受けて秀吉は三法師を返さない信孝を責め、また信孝を唆した柴田勝家を糾弾して兵を挙げ同時に宿老会議で決定した、三法師に後見人を置かないという約束を反故(ほご)にして、織田信雄を担ぎ出して後見にします。

 

秀吉としては勝家が信孝を立てる以上は、こちらは信雄を立てないと格好がつかなかったのでしょうが、ここで宿老体制は完全に反故にされて消滅したのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

映画やドラマでは、秀吉が織田家の後継者になる舞台装置のように扱われる清須会議ですが、実際には、早々秀吉の思い通りに事が運んだわけではないようです。

 

表情 kawausoさん01

 

明智光秀を討った最大功労者として、織田家をリードする気満々の秀吉でも、最初から、三法師の後見人待遇の信孝を無視するつもりはなく、相応に気をつかった対応をしています。

 

逆に、宿老会議がちゃんと機能したかと言えば、信孝と信雄の境界争いでは本家筋の争いだけに遠慮して機能不全を起こし、信長の葬儀も放り出すような状態になり、秀吉主導で宿老や信孝・信雄の参列もないまま、強引に出してしまう有様でした。そのような中で、天下への手ごたえを掴んだ秀吉が清須会議を崩壊に導く方向に舵を切り賤ヶ岳の戦いへと突き進むのではないでしょうか?

 

参考文献:清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?

 

関連記事:【書評】清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?

関連記事:滝川一益とはどんな人?清須会議に間にあっても役に立たなかった

 

織田信長スペシャル

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)
-