滝川一益とはどんな人?清須会議に間にあっても役に立たなかった

2020年6月5日


 

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州会議の参加に間に合わなかった滝川一益

 

映画清須会議(きよすかいぎ)で、結局清須城の会議に間に合わなかった滝川一益(たきがわかずます)、コミカルな演技で笑わせてもらいましたが、リアルな滝川一益と言うと知らない人が多いのではないでしょうか?そこで今回は最新研究から、史実の滝川一益について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大永五年に誕生

滝川一益

 

滝川一益は大永(だいえい)5年(1525年)に滝川一勝(たきがわかずかつ)滝川資清(たきがわすけきよ))の子として生まれました。父は、近江国甲賀郡(おうみのくにこうがぐん)の国人とも伝わるので、忍者だったのではないかとも言われますが、俗説で確かな事は分かりません。

 

織田信長

 

ただ、織田信長に仕えたのは早く、信長公記によると天文年間(てんもんねんかん)後期に尾張の盆踊りで施餓鬼役(せがきやく)を務めた滝川左近充(たきがわさこんじゅう)が一益の事であるようです。この事から織田家譜代の臣と見做す事もあります。

 

伊勢北畠氏攻略に活躍

安土城 織田信長が作らせた城

 

初期の滝川一益の活動の舞台は伊勢(いせ)でした。

永禄(えいろく)11年(1568年)2月、伊勢の有力豪族の長野氏に、信長の弟の織田信包(おだのぶかね)を婿養子に入れる事に尽力している様子が見られます。これは、伊勢の戦国大名北畠具教(きたばたけとものり)具房(ともふさ)親子攻略の布石でした。

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

同年の8月には一益は、北畠氏の居城、大河内城包囲に参陣、信長は大河内城の焼き討ちを命じますが、北畠氏は信長の次男茶筅(ちゃせん)織田信雄(おだのぶかつ))を養子に迎える事を降伏条件にしてきたので和睦に応じました。10月には、津田一安と共に大河内城を受け取り、一益は安濃津(あのつ)渋見(しぶみ)木造(きづくり)の3つの城を預けられ城持ち武将になります。

 

はじめての戦国時代

 

拡大していく活動範囲

織田信長から信頼される滝川一益

 

以後の一益は、幼い北畠信雄を補佐して、伊賀国の守護仁木氏(にきし)を降伏させるなど、伊勢を中心に活動していきますが、そこに固定したわけでもなく、信長の上洛にあわせ、山城西岡の国衆、革嶋氏(かわしまし)の取次役を務めたりするなど、忍者のように各地を横断しています。

 

佐久間信盛

 

元亀4年(1573年)将軍足利義昭挙兵に際しては、佐久間信盛(さくまのぶもり)など信長重臣と連署で、和睦を請う起請文を義昭周辺と交わしていて、宿老のような扱いでした。

明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

同年には、浅井氏攻めに参陣、朝倉氏滅亡後は、明智光秀(あけちみつひで)羽柴秀吉(はしばひでよし)と共に一時は越前支配を担当しました。

 

一向一揆(農民)

 

天正元年(1573年)9月と翌年7月の伊勢長島一向一揆攻めに参陣し、一向一揆の殲滅後、長島城に入城しています。

 

越前一向一揆平定戦

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

天正3年の越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)平定戦では、北畠信雄(きたばたけのぶかつ)(茶筅)、神戸信孝(かんべのぶたか)長野信包(ながののぶかね)の補佐役として、津田一安(つだかずやす)原田直政(はらだなおまさ)と共に派遣されます。津田一安、原田直政共に北畠氏の関係者である事から、滝川一益は、織田信忠に次ぐ地位にある北畠信雄の補佐として、同じく北畠領の伊勢大湊の支配にも関与していて、織田家宿老として織田家の血縁者から絶大な信頼を寄せられていたと考えられます。

 

一益は、近江甲賀郡の支配にも関わり、天正3年の瀬田橋欄干(せたはしらんかん)の造立のために信長直属衆を除く甲賀中の大工の派遣を命じられ、同地の神社間の相論(そうろん)(裁判)の裁定にも加わっています。後の天正伊賀の乱でも、一益は出陣していた事から甲賀については、浅からぬ縁があったようです。

明智光秀(麒麟がくる)

 

大和についても伊勢に近い事から、北畠氏従属国衆、沢氏(さわし)の指南役を務め、原田直政戦死後には、大和一国の差出(さしだし)(自己申告的な検地)を明智光秀と担当しました。

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kawauso編集長

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