罪人の晒し方には色々あるけど三国志の時代の中国の晒し刑は少し変わっている。
以下は、正史三国志諸葛亮伝に付属する徐庶伝
徐庶のかつて名は福で、もとは単家の子であり、若くして任侠と撃剣を好んだ。
後漢の中平の末に人のために仇討ちをして白土で顔を汚しザンバラ髪にして逃げたが、
刑吏に捕らわれ、名前を言えと尋問されても、固く口を割らなかった。
刑吏はかくして車上に柱を立てて磔(はりつけ)にし、鼓を打ちて市に晒(さら)したが、
徐庶を知ると言う者はなく、その仲間が救助にやってきて脱出できた。
顔を白くして髪を解くのは狂人の振りをして刑吏の目を欺くという意味だが、
車上に柱を立てて磔にし鼓を打って市場に晒すとは面白い。馬車に引かれた磔台の徐庶が市中を巡回したのだろうか?
こんな風に晒し者になっているのは、kawausoが知る限り徐庶1人だ。
前回記事:今日のkawauso29「やはり関羽は単独行動では?」