越後の龍、上杉謙信、戦国時代で最強と呼ばれる上杉謙信は、自らを毘沙門天の化身と信じ、利害より正義を重んじ頼って来る人間を見捨てず、そのせいでいらない敵を増やし、天下を取り逃がした人としても有名です。
そんな謙信、戦に強いせいで健康なイメージを持つ方もいると思いますが、意外にも最後に便所で倒れる以前にも、何度か病気をしている病弱人物なのです。
※こちらの記事は医学的な知見を元に書いているものではありませんので、その点ご了承下さい。
この記事の目次
何度も病気に倒れる虚弱なお館様
上杉謙信(当時は長尾景虎)が、越後守護上杉定実の跡を継いで家督を相続したのは天文19年(1550年)2月の事でした。
同年12月、一族の坂戸城主の長尾政景が、謙信の家督相続を不服として反乱を起こします。上杉謙信は天文20年8月に長尾政景の居城坂戸城を包囲。長尾政景は降伏して助命され、謙信は22歳の若さで越後統一を成し遂げます。
しかし、それから上杉謙信は人生の節目、節目で病気に見舞われる事になります。
①永禄2年(1559年)6月、謙信30歳、2度目の上洛中に背中に癰という重度の腫物が出来たが、家臣たちが口で吸い出して治療し程なく治癒した。
②永禄4年(1561年)謙信32歳、関東遠征中に腹痛を患い、近衛前久から病気見舞いの文書が送られている。
③永禄5年(1562年)左足が気腫(痛風かリュウマチ)になり、歩く時に引きずる様子が見られた。(永禄4年説もある)
④永禄8年(1565年)謙信36歳、瘧(マラリア)に罹患、同時に急性関節炎も併発し、左足が不自由になったとも言われる
⑤元亀元年(1570年)謙信41歳、軽い中風を発症し回復するが手指に少しの麻痺が残った
⑥天正6年(1578年)3月9日、便所で倒れているのを発見され3月13日に急死。(享年49歳)
このように、合戦に強い軍神にしては、30代から病気に見舞われ、40代になってすぐに中風と、いまなら成人病予備軍の典型と呼ばれる病歴を持っています。一体、この病気続きの原因はなんなのでしょうか?
上杉謙信は大酒飲み
上杉謙信は、大変な酒豪だった事が知られています。謙信はいつも酒宴の後に飲み足りず、お気にいりの家臣2~3名とともに飲み直したうえに梅干しを肴にする事を好んでいました。
また、永禄2年(1559年)の二度目の上洛では、足利義輝や公家の近衛前嗣(前久)を相手にバッカバッカ飲んでいます。そもそも、この人、上洛の前に癰が出来ているのですが、これは糖尿病を発症した人が、なりやすいのだそうです。
しかも、謙信の大酒は一夜だけで済まず、上杉家文書によれば、
華文字なる若衆をあまた集めきて、大酒を煮て、度々夜を明かされた、小弼(謙信の官途)は若文字が好きのようだ。
このように美少年を酒の相手に毎夜、朝まで飲んだと書かれています。自分が病気かもとは少しも考えない天晴な酒豪ぶりですね。ですが、明らかにその頃から謙信の体は糖尿病に蝕まれていたようです。
糖尿病になっていた上杉謙信
糖尿病は血糖値が高くなった状況ですが、血糖値が高いとは血液がドロドロの状態であり、ドロドロの血液は血管を傷つけ脆くし同時に血管から弾力を奪い硬くします。
血管が弾力を失えば心臓は血液を送り込むのに、より圧力を掛けないといけないので、必然的に高血圧になり、心臓と血管に強い負担がかかるのです。
この状態で、血圧が急激に上がる事をすると血管がプチっと切れてしまうわけで、謙信が便所で倒れた時には、脳の血管が切れて脳溢血になった可能性がありますね。
元々新潟では塩分摂取量が大きかった
ただ、上杉謙信に限らず、東北の越後では高血圧が原因で亡くなる人が多かったようです。その理由は越後の寒さでした。冷蔵庫がない戦国時代、越後の人々は秋までに漬物をつくって再び、農業が出来る春を待つのです。漬物には塩が欠かせませんが、この塩がくせ者でした、漬物から摂取する塩分、なんと1日平均30gに達していたのです。
現在では、成人の1日の塩分摂取量は6g以下と言われていますから、戦国時代の越後人は現代人の5倍という高い塩分を取っていたわけです。もちろん、越後人である上杉謙信も、梅干しや塩のような食品を酒の肴にしていて、普段は粗食だったそうですから、そこに漬物はきっとあったでしょう。
上杉謙信は、仮に大酒飲みではなくても、晩年は脳血管障害に倒れた可能性もあります。
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