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摂津晴門はどんな人?地味なオジちゃんは将軍の切り札だった

2020年9月13日


 

はじめての三国志_ページネーション

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摂津晴門はどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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将軍義輝の背伸びが永禄の政変の引金に

足利義輝

 

足利義輝が摂津晴門を政所執事に就任させた理由は、足利義満でさえ自由に出来なかった政所を、晴門を仲介して支配し、財政と領地の訴訟において将軍権力が口を挟めるようにする事でした。

 

また、摂津晴門にとっても、一族の勢力を伸ばし将軍権力を強化できる政所執事は魅力的な仕事であった事でしょう。

 

周りに恐れられていた松永久秀

 

しかし、摂津晴門の政所執事就任を喜ばない一派がいました。将軍はロボットであった方が、何かと都合がよい三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)久通父子(ひさみち・ふし)です。三好三人衆と足利義輝の確執は深まり、再び衝突は回避不能になりました。

 

燃える本能寺

 

そして、永禄8年(1565年)6月17日、足利義輝の後ろ盾だった六角義賢が動けない事を確認した上で、三好義継(みよしよしつぐ)三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友通(いわなりともみち)、それに松永久秀から家督を継いだ、松永久通は1万の軍勢で京都二条御所を包囲します。

 

永禄の政変は、三好側が自分達の条件を義輝に飲ますために行った御所巻が義輝サイドの強硬な拒否により手切れとなり殺害に発展したという説もありますがハッキリしません。ただ、この政変により足利義輝は殺害され、摂津晴門の13歳の一人息子、摂津糸千代丸(せっついとちよまる)も奮戦して討死しました。

 

摂津晴門は足利義昭を擁して返り咲くが

逃げ回る足利義昭

 

息子を失った晴門ですが、官途奉行のような地位はそのまま安堵されていました。

 

しかし、三好三人衆に擁立された14代将軍候補の足利義栄(あしかがよしひで)が、伊勢貞孝の孫貞為(さだため)の出仕を認めた事に猛反発した晴門は、将軍宣下(しょうぐんせんげ)に出席を拒否し、義輝の弟である足利義昭に仕えるようになります。

 

やがて、足利義昭は越前朝倉氏を見限り、美濃を攻略したばかりの織田信長の庇護を受け、義昭を奉じた信長は3カ月余りで上洛を実現し、三好三人衆を京都から追い払います。

 

織田信長

 

こうして永禄11年(1568年)、15代将軍宣下を受けた足利義昭の下で、再度、政所執事に返り咲く晴門ですが、それから3年後の元亀2年(1571年)には政所執事の地位を伊勢貞興(いせさだおき)に奪われてしまいました。

 

足利義昭に仕える摂津晴門

 

これは晴門が足利義昭と不仲になったからとも、義昭とギクシャクしてきた信長が京都の統治を自ら行う為に義昭の側につく老練な晴門を外すように義昭に圧力を掛けたせいとも言われます。実際、伊勢貞興は当時僅か9歳であり、とても政所執事が勤まる年齢ではなく京都市中からの段銭(臨時税)徴収も信長が代理でしているからです。

 

それからしばらくして、摂津晴門は当時の文書に名前が出なくなる事から隠居したか、ほどなく亡くなったと考えられています。年齢は不明ですが、60歳は過ぎていたかも知れません。

 

明智光秀と摂津晴門

明智光秀に意地悪をする摂津晴門

 

明智光秀は足利義昭上洛後は、義昭の幕臣の立場と信長の家来という2つの身分を持っていたので板挟みになる事も多かったでしょう。なので、あくまでも将軍家の利益を最優先してくる晴門には意地悪され苦しめられる事になりそうです。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

また、摂津晴門が政所執事を追放された後に、執事になる伊勢貞興は、光秀の忠実な家臣になり山崎の戦いで21歳の短くも見事な最期を遂げています。こうしてみると晴門と光秀は和解する事がない敵同士として激突し続ける事になりそうですね。

 

kawa註:政所執事伊勢氏とは?

内容に納得がいかないkawauso様

 

伊勢氏は1379年に伊勢貞継が室町幕府政所執事になって以来、180年以上政所執事を世襲した名門です。

 

特に、室町中期の伊勢貞親(いせさだちか)は、8代将軍の足利義政を幼少の頃から養育して疑似父子関係であり、義政が将軍に就任すると幕府官僚の枠を超えて幕政に関与するようになり、斯波(しばし)氏、畠山氏や将軍後継問題にも口を出して暗躍、応仁の乱黒幕の1人とも呼ばれます。

 

 

実務では、政所に所属する実務派官僚のスタッフ20名余りを束ね、窮乏する幕府財政を支える為、債務や債権額の5%や10%を幕府に支払う事で債務放棄・債権維持を認める、分一徳政令(ぶいちとくせいれい)と呼ばれるウルトラCを編み出すなど財源を捻り出し、幕府にとって無くてはならない存在になりました。

 

貞親以後も代々、政所執事を務めますが、伊勢貞孝の時代に足利義輝と距離を置いて、政所執事の業務に専念した事で関係が崩壊、政所執事を解任され、貞孝・貞良父子が反乱を起こしますが敗死し、勢力は大きく後退します。

 

永禄の政変で足利義輝が三好三人衆に討たれると、摂津晴門に代わり貞孝の孫、伊勢貞為が政所執事に返り咲きますが、織田信長に報じられた足利義昭が上洛し、三好三人衆が京都を追われると、再び政所執事を摂津晴門に追われます。

 

その後、弟の伊勢貞興が政所執事に返り咲きますが、間もなく室町幕府は滅亡、政所執事としての伊勢氏の歴史にも終止符が打たれました。

 

摂津晴門年表

戦国時代の武家屋敷a

 

・永正年間(1504年~1521年):室町幕府引付方、官途奉行、摂津元親(元造)の子として誕生

・享禄元年(1528年):従五位下中務大輔に任じられる。足利義晴から偏諱を受け、晴直、次に晴門に名前を改める

・天文9年(1550年):足利義晴死去、父の摂津元造は出家、晴門は父を補佐して、官途奉行、地方頭人、神宮方頭人を手伝う

・天文22年(1553年):足利義輝、三好長慶と抗争し敗れ、近江、朽木谷へ退避、摂津晴門も従う

 

・永禄元年(1558年):足利義輝、三好長慶と和睦し5年ぶりに入京。

・永禄4年(1561年):六角義賢が京都に侵攻、足利義輝、三好長慶と協力して戦うも敗れ京都を追われる

 

・永禄5年(1562年):足利義輝、六角義賢と和睦、反抗的だった政所執事、伊勢貞孝を更迭。伊勢貞孝、京都船山で挙兵するも敗死。同年、父、摂津元造死去。晴門家督相続

 

・永禄7年(1564年):摂津晴門、伊勢氏に代わり政所執事に就任

 

・永禄8年(1565年):永禄の政変勃発、三好三人衆、三好義継、松永久通が二条御所を包囲し足利義輝を殺害。晴門の1人息子、糸千代丸も戦死(13歳)14代将軍候補、足利義栄が伊勢貞為を起用したのに抗議、将軍宣下に欠席。足利義政の元へ移動。

 

・永禄11年(1568年)足利義昭、織田信長に奉じられて上洛。摂津晴門、政所執事再任

・元亀2年(1571年):伊勢貞興が政所執事に就任し晴門は解任。以後、史書に登場せず

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

光秀にとっては嫌な相手になる摂津晴門ですが、彼には彼なりの正義があり理想があったのでしょう。名門出でコチコチの石頭ですが、一人息子を永禄の政変で亡くす等、辛い目にもあっています。きっと憎らしい存在になるでしょうが、優しい目で見てあげて下さい。

 

参考:Wikipedia等

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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