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この記事の目次
柏原城開城し、天正伊賀の乱終わる
柏原城は伊賀の南端であり、それ以外の地域はほぼ放棄され、織田軍の蹂躙に任される事になります。色々な説がありますが、織田軍は平楽寺で僧侶を700名、伊賀全体では人口9万のうち非戦闘員を含む3万人が殺したそうで、1/3人を殺すというまさに皆殺しです。
織田軍に追われた伊賀衆は城主滝野吉政や上忍、百地丹波をはじめ、近在や比自山城から落ち延びた土豪など1600人あまりで最後の抵抗を試みます。
しかし、城を完全に包囲されてしまっては手も足も出ず、奈良の大倉五郎次という猿楽太夫が柏原城に入って和睦を仲介、滝野吉政が早朝に織田信雄と会って、城兵の人命保護を条件に和睦を請い開城しました。
開城日時としては、9月28日、信長公記では9月11日としています。伊賀の残党は、その後も残党狩りなどで多く捕縛され処刑されますが、指揮官の多くは他国へ逃げのび、ほとぼりが冷めた頃にしれっと伊賀に帰国したそうです。
信長の死後、伊賀惣国一揆が復活
ところが本能寺の変後、伊賀衆は息を吹き返しました。信長が任命した各地の城主を追い出したり、殺したりするなど恨みの深さを見せつけます。柏原城主の滝野吉政も本能寺の変を知ると、すぐに伊勢国松ヶ島城に逃げこんで織田信雄を頼っていますが、柏原城は一揆勢に奪還されました。
信長に武田滅亡の戦勝祝いで招かれ大坂まで来ていた徳川家康も、伊賀惣国一揆では立ち往生、命を落とすかも知れない程の恐怖を味わいました。
さて、一方の信雄、謀反人明智光秀を討つ絶好の場所にいたのですが、伊勢から京都に行くには、伊賀を通らざるを得ず、そこで惣国一揆が起きたものですから背後を一揆勢に衝かれる事を恐れて、近江土山まで軍を進めながら何も出来ませんでした。
また、手勢の多くを四国遠征軍に割かれ、2500の手勢しかいなかったのも、信雄を弱気にした原因ではあります。
結局、傍観していたせいで信雄は、明智光秀討伐の手柄を羽柴秀吉に奪われ、清須会議では、ほとんど何の発言権もなくなるわけですから、伊賀忍者は間接的に恨み重なる織田信雄に復讐したという図式になりますね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
天正伊賀の乱について書いてみました。この戦いの後、多くの伊賀忍者は全国に散らばり、藩の情報収集などに従事しています。例えば江戸時代の岡山藩の忍者は元伊賀忍者で、赤穂事件の時には命令を受けて赤穂藩に潜入し、大石内蔵助の情報などを探り国許に報告しています。
また、現在でも三重県伊賀には、伊賀忍者の末裔を名乗る自称ではない人が多くいるそうです。伊賀が酷いダメージを受けても、忍者が滅んだわけでは無かったんですね。
参考:Wikipedia
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