大阪の人達の中には大阪城のことを親しみを込めて「太閤はんのお城」と呼ぶ人がいらっしゃるそうです。
その昔、海の中にあったほどの低湿地帯・大阪を発展させた豊臣秀吉は、大坂夏の陣、冬の陣で活躍した真田幸村と共に関西での人気は高く、「徳川家康」をはるかにしのぎます。
しかし、そんな大阪の人達の意思で再建された天守閣が、実は豊臣秀吉の様式と徳川幕府になってからの様式とがミックスしたモデルであることをご存じでしょうか。
豊臣秀吉が切り開き、江戸時代に発展した大阪の街。戦国時代の最後の戦いの舞台となった豊臣時代の「大阪城」。豊臣の時代から徳川の時代へと変わる象徴となった徳川時代の「大阪城」。大阪の街、そして大阪城は随所に豊臣と徳川のつばぜりあいの様相が見て取れます。その両者の歴史を知ることで、観光の愉しみ方がふえるのではないかと思います。
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現存の天守閣は「黒天守」と「白天守」がミックスされたオリジナルデザイン
現存している天守閣は、1931年に市民の寄付により鉄筋コンクリートで建造されたものです。最上重だけが黒い壁面で、その下は白い壁面という珍しいデザインとなっています。これは豊臣時代の黒い天守と徳川時代の白い天守をミックスさせたオリジナルデザインなのだそうです。
※この市民の寄付には、申し込みが殺到したようで、およそ半年で目標額の150万円が集まりました。そのうちの25万円は住友財閥総帥住友友成の寄付です。150万円の使い道は天守の再建に47万円、第四師団司令部庁舎の建築に80万円、大阪城のうち本丸などの一部の公園化(北部は大阪砲兵工廠、残りの大半は第四師団の敷地)整備費用に23万円となっています。
戦国時代の天守は黒い色が主流であり、豊臣秀吉が築城した大阪城ももちろんそうでした。黒い色には理由があります。風雨や虫害を防ぐために、炭や黒漆、柿渋を塗った板を貼り付けていたため、そのような色になるわけです。豊臣秀吉といえば「金の茶室」「金好き」というイメージがありますが、黒い色をした大阪城にも「金」をふんだんに使った装飾(金の鯱も存在していたことが確認されています)が施されていたそうです。現在の大阪城も少しだけ金の装飾が施されています。白地の部分にも黒地の部分にも装飾がされていますが、やはり「金」は「白」より「黒」が映えますよね。個人的にはぜひ豊臣時代の真っ黒の下地に金が輝く大阪城を復元してほしいですね。
筆者の願望はおいておくとして、江戸時代の天守の説明をいたしますと、外部の全表面を漆喰で仕上げる「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)」という技術が用いられるようになり、従って白い色となります。これは、徳川家康は時代の移り変わりの象徴として、意図的に黒い色から白い色に変えたのだとも言われています。
ではどうして復元する際に、ミックス型の「大阪城」が採用されることになったのでしょうか。まさか豊臣派と徳川派の両方のファンに忖度したわけではない筈ですが、はっきりした理由はわかっていません。しかし、ひとつの理由として考えられるのは、豊臣時代の天守の現存資料があまりにも少なかったということ。『大坂夏の陣図屏風』には確かに黒い天守閣が描かれていますが、それ以外の資料はほとんど残っていないようです。豊臣時代の天守を建てたくても建てられなかったのかもしれません。歴史は常に勝者の目線で語られます。勝者である徳川が豊臣の資料を廃棄してしまったのかもしれませんね。
城の下に眠る豊臣石垣の公開プロジェクト
徳川幕府は「大阪城」を再建する際、豊臣時代の石垣に盛り土を施し、地下に埋めてしまい、その上に建造するという荒行を行いました。淀川など河川の整備を行う際に出た土などを使用したと言われています。その後、地下に豊臣時代の名残があることは忘れ去られてしまいました。
1959年、大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社は、「大坂城総合学術調査団」を組織し、上町台地の地質を調査するためにボーリング調査をおこなったのですが、そこで思いがけない発見がありました。地下約9.3mの位置から花崗岩が確認されたのです。地質学的に花崗岩がそこにある筈はなく、おそらくは石垣で使用された花崗岩であろうということで、見つかった地点を中心に3m四方の範囲を掘り下げる調査が行われました。そして地下7.3mの位置にある石垣が発見されたのです。
見つかった石垣の石は、小ぶりの自然石が用いられた「野面積」といわれる積み方でした。これは江戸時代の技術ではなく、豊臣時代の技術です。また翌年に豊臣氏の大坂城本丸図が東京で発見されたので、その資料を検討した結果、発見された石垣は豊臣時代の大坂城の本丸「中ノ段帯曲輪」の石垣であると考えられるようになりました。
しかしこの時は調査が終わると再び埋め戻されてしまいました。再び掘り起こすことが決まったのは、大阪夏の陣から400年の節目を迎えた2013年です。大阪市は石垣を再び掘り起こし、公開する事業に取り組むことを決定したのです。このプロジェクトが成功すれば、地中深く眠っていた豊臣時代の大坂城の石垣と、江戸時代の技術を用いた徳川時代の大阪城の石垣を見比べることが出来るようになるのです。
すごくないですか。この壮大なる歴史浪漫に胸躍りますね。大阪市は広く寄付を受け付けていますので、関心のある方はぜひご覧ください。。
それにしても、豊臣の偉業は全てなかったことにしたいと考えた徳川幕府は、資料を処分するだけでなく、石垣までも最初からなかったかのように全てを覆い隠してしまったんですね。その高さ6~7メートル。なんと壮大なる隠ぺい工作なのでしょう。
信長がどうしても欲しかった上町台地を引き継いだ豊臣秀吉
織田信長が1570年から11年もの間、一向宗と戦っていたことは有名な話ですが、実は一向宗の本山があったのは大阪の石山本願寺。現在大阪城が建っている場所でした。そうです。石山とは大阪市中央区の上町台地を指し、そこには本願寺の総本山があったのです。
縄文時代、上町台地は大阪湾の海に突出した半島でした。戦国時代の海面は下がっていましたが、満潮時には海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地帯でした。そういう意味では名古屋城と立地条件が極似しています。ちなみに浪速や難波という地名は、文字通り海の波にさらされていた場所という意味です。当時の大坂、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台だったのです。
当時の物流の中心は水運ですから淀川の河口に位置している、上町台地を抑えることで、京都の朝廷の動きを牽制することができました。京都から瀬戸内海に抜けるには、どうしても上町台地の脇をとおる必要があったのです。海外や西国との貿易の中心は堺の港でしたが、当時は政治の中心地である京都のことを考えると、織田信長にとって、石山・上町台地を戦国の世を平定するため絶対に押さえておかなければならない重要な土地だったのです。
当時中国地方の有力武士であった毛利輝元はそのことを充分理解しており、織田信長と対抗するため、村上水軍(当時の瀬戸内海の制海権を抑えていた海賊)と手を結び一向宗の味方をしていました。ですので石山本願寺は南側の陸路を封鎖されたとしても、海から物資を運搬できたので補給が容易でした。そのため兵糧攻めを行うことが出来ません。、攻撃をするにも南側からしか出来ませんので、石山本願寺としては、南側の防御を固めるだけでよいわけです。どうして信長はこの石山本願寺を攻めあぐねていたのか、地形的な観点でみていただくとよくわかると思います。
豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)もその戦いに参戦しており、石山・上町台地の立地の重要性を痛いほどわかっていたのでしょう。信長の意志は秀吉へと引き継がれ、大阪城は建造されました。国土地理院が提供している、日本の国土の高低差がわかるウェブ地図があるのですが、これを観ていただくと、重要性を実感していただけると思います。
台地の上ではあるが「大阪城」は平城?平山城?水城?
平城とは、文字通り平地に築かれた城を言います。
戦国時代までは戦のための防御が城の最大の目的であったため、山城が主流でした。しかし戦国時代末期から江戸時代初期になると、城の役割が政務を行う場所、経済の中心地という色が濃くなっていったため、山に城を築くことは減り、交通や商業の要衝に城を築くようになっていきます。山城と比べ防御面で脆くなりやすいことが懸念されますが、大阪城の場合は海岸・河川に隣接して築城され、その水を防御に最大限利用しており、捉え方によっては水城とも言えます。また上町台地の上にあるため、平山城に分類する人も多いようです。
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