大阪城とはどんなお城?徳川時代にも繁栄した「天下の台所」楽しみ方や秘密・魅力をご紹介

2020年9月18日

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kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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大阪城 f

 

大阪の人達の中には大阪城(おおさかじょう)のことを親しみを込めて「太閤はんのお城」と呼ぶ人がいらっしゃるそうです。

 

真田丸 真田幸村

 

その昔、海の中にあったほどの低湿地帯・大阪を発展させた豊臣秀吉は、大坂夏の陣、冬の陣で活躍した真田幸村(さなだゆきむら)と共に関西での人気は高く、「徳川家康(とくがわ いえやす
)
」をはるかにしのぎます。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

しかし、そんな大阪の人達の意思で再建された天守閣が、実は豊臣秀吉の様式と徳川幕府になってからの様式とがミックスしたモデルであることをご存じでしょうか。

 

豊臣秀吉が切り開き、江戸時代に発展した大阪の街。戦国時代の最後の戦いの舞台となった豊臣時代の「大阪城」。豊臣の時代から徳川の時代へと変わる象徴となった徳川時代の「大阪城」。大阪の街、そして大阪城は随所に豊臣と徳川のつばぜりあいの様相が見て取れます。その両者の歴史を知ることで、観光の愉しみ方がふえるのではないかと思います。

 

現存の天守閣は「黒天守」と「白天守」がミックスされたオリジナルデザイン

 

現存している天守閣は、1931年に市民の寄付により鉄筋コンクリートで建造されたものです。最上重だけが黒い壁面で、その下は白い壁面という珍しいデザインとなっています。これは豊臣時代の黒い天守と徳川時代の白い天守をミックスさせたオリジナルデザインなのだそうです。

 

※この市民の寄付には、申し込みが殺到したようで、およそ半年で目標額の150万円が集まりました。そのうちの25万円は住友財閥総帥住友友成の寄付です。150万円の使い道は天守の再建に47万円、第四師団司令部庁舎の建築に80万円、大阪城のうち本丸などの一部の公園化(北部は大阪砲兵工廠、残りの大半は第四師団の敷地)整備費用に23万円となっています。

 

戦国時代の天守は黒い色が主流であり、豊臣秀吉が築城した大阪城ももちろんそうでした。黒い色には理由があります。風雨や虫害を防ぐために、炭や黒漆、柿渋を塗った板を貼り付けていたため、そのような色になるわけです。豊臣秀吉といえば「金の茶室」「金好き」というイメージがありますが、黒い色をした大阪城にも「金」をふんだんに使った装飾(金の鯱も存在していたことが確認されています)が施されていたそうです。現在の大阪城も少しだけ金の装飾が施されています。白地の部分にも黒地の部分にも装飾がされていますが、やはり「金」は「白」より「黒」が映えますよね。個人的にはぜひ豊臣時代の真っ黒の下地に金が輝く大阪城を復元してほしいですね。

 

筆者の願望はおいておくとして、江戸時代の天守の説明をいたしますと、外部の全表面を漆喰で仕上げる「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)」という技術が用いられるようになり、従って白い色となります。これは、徳川家康は時代の移り変わりの象徴として、意図的に黒い色から白い色に変えたのだとも言われています。

 

ではどうして復元する際に、ミックス型の「大阪城」が採用されることになったのでしょうか。まさか豊臣派と徳川派の両方のファンに忖度したわけではない筈ですが、はっきりした理由はわかっていません。しかし、ひとつの理由として考えられるのは、豊臣時代の天守の現存資料があまりにも少なかったということ。『大坂夏の陣図屏風』には確かに黒い天守閣が描かれていますが、それ以外の資料はほとんど残っていないようです。豊臣時代の天守を建てたくても建てられなかったのかもしれません。歴史は常に勝者の目線で語られます。勝者である徳川が豊臣の資料を廃棄してしまったのかもしれませんね。

 

城の下に眠る豊臣石垣の公開プロジェクト

 

徳川幕府は「大阪城」を再建する際、豊臣時代の石垣に盛り土を施し、地下に埋めてしまい、その上に建造するという荒行を行いました。淀川など河川の整備を行う際に出た土などを使用したと言われています。その後、地下に豊臣時代の名残があることは忘れ去られてしまいました。

 

1959年、大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社は、「大坂城総合学術調査団」を組織し、上町台地の地質を調査するためにボーリング調査をおこなったのですが、そこで思いがけない発見がありました。地下約9.3mの位置から花崗岩が確認されたのです。地質学的に花崗岩がそこにある筈はなく、おそらくは石垣で使用された花崗岩であろうということで、見つかった地点を中心に3m四方の範囲を掘り下げる調査が行われました。そして地下7.3mの位置にある石垣が発見されたのです。

 

見つかった石垣の石は、小ぶりの自然石が用いられた「野面積」といわれる積み方でした。これは江戸時代の技術ではなく、豊臣時代の技術です。また翌年に豊臣氏の大坂城本丸図が東京で発見されたので、その資料を検討した結果、発見された石垣は豊臣時代の大坂城の本丸「中ノ段帯曲輪」の石垣であると考えられるようになりました。

 

しかしこの時は調査が終わると再び埋め戻されてしまいました。再び掘り起こすことが決まったのは、大阪夏の陣から400年の節目を迎えた2013年です。大阪市は石垣を再び掘り起こし、公開する事業に取り組むことを決定したのです。このプロジェクトが成功すれば、地中深く眠っていた豊臣時代の大坂城の石垣と、江戸時代の技術を用いた徳川時代の大阪城の石垣を見比べることが出来るようになるのです。

 

すごくないですか。この壮大なる歴史浪漫に胸躍りますね。大阪市は広く寄付を受け付けていますので、関心のある方はぜひご覧ください。。

 

参考:太閤なにわの夢募金(外部リンク)

 

それにしても、豊臣の偉業は全てなかったことにしたいと考えた徳川幕府は、資料を処分するだけでなく、石垣までも最初からなかったかのように全てを覆い隠してしまったんですね。その高さ6~7メートル。なんと壮大なる隠ぺい工作なのでしょう。

 

信長がどうしても欲しかった上町台地を引き継いだ豊臣秀吉

馬に乗って戦う若き織田信長

 

織田信長が1570年から11年もの間、一向宗(いっこうしゅう)と戦っていたことは有名な話ですが、実は一向宗の本山があったのは大阪の石山本願寺(いしやまほんがんじ
)
。現在大阪城が建っている場所でした。そうです。石山とは大阪市中央区の上町台地(うえまちだいち
)
を指し、そこには本願寺の総本山があったのです。

 

古墳時代服装男女(弥生)

 

縄文時代、上町台地は大阪湾の海に突出した半島でした。戦国時代の海面は下がっていましたが、満潮時には海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地帯でした。そういう意味では名古屋城と立地条件が極似しています。ちなみに浪速や難波という地名は、文字通り海の波にさらされていた場所という意味です。当時の大坂、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台だったのです。

 

 

当時の物流の中心は水運ですから淀川の河口に位置している、上町台地を抑えることで、京都の朝廷の動きを牽制することができました。京都から瀬戸内海に抜けるには、どうしても上町台地の脇をとおる必要があったのです。海外や西国との貿易の中心は堺の港でしたが、当時は政治の中心地である京都のことを考えると、織田信長にとって、石山・上町台地を戦国の世を平定するため絶対に押さえておかなければならない重要な土地だったのです。

 

毛利輝元

 

当時中国地方の有力武士であった毛利輝元(もおりてるもと)はそのことを充分理解しており、織田信長と対抗するため、村上水軍(当時の瀬戸内海の制海権を抑えていた海賊)と手を結び一向宗の味方をしていました。ですので石山本願寺は南側の陸路を封鎖されたとしても、海から物資を運搬できたので補給が容易でした。そのため兵糧攻めを行うことが出来ません。、攻撃をするにも南側からしか出来ませんので、石山本願寺としては、南側の防御を固めるだけでよいわけです。どうして信長はこの石山本願寺を攻めあぐねていたのか、地形的な観点でみていただくとよくわかると思います。

 

豊臣秀吉 戦国時代2

 

豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)もその戦いに参戦しており、石山・上町台地の立地の重要性を痛いほどわかっていたのでしょう。信長の意志は秀吉へと引き継がれ、大阪城は建造されました。国土地理院が提供している、日本の国土の高低差がわかるウェブ地図があるのですが、これを観ていただくと、重要性を実感していただけると思います。

 

・参考:デジタル標高地形図「近畿」(外部リンク)

 

台地の上ではあるが「大阪城」は平城?平山城?水城?

 

平城(ひらじろ)とは、文字通り平地に築かれた城を言います。

 

戦国時代までは戦のための防御が城の最大の目的であったため、山城(やまじろ)が主流でした。しかし戦国時代末期から江戸時代初期になると、城の役割が政務を行う場所、経済の中心地という色が濃くなっていったため、山に城を築くことは減り、交通や商業の要衝に城を築くようになっていきます。山城と比べ防御面で脆くなりやすいことが懸念されますが、大阪城の場合は海岸・河川に隣接して築城され、その水を防御に最大限利用しており、捉え方によっては水城(みずじろ)とも言えます。また上町台地の上にあるため、平山城に分類する人も多いようです。

大阪城をシンボルとした豊臣秀吉の街づくりを検証しよう!

 

上町台地の北の端にある「大阪城」から、上町台地を10km以上南下すると、当時の商業や海外貿易の中心地であった、外港「堺」に着きます。豊臣秀吉は朝鮮出兵を行ったことからも、海外進出を強く意識していたことがわかります。京都、堺、瀬戸内海、そして大陸へと続くルートの中核的な役割を担うべく、大阪城の南側を中心に街づくりを行いました。

 

大阪城築城時と同時に水運を街づくりに活用するため、自然の川と人工的に造った堀を巡らせています。北に土佐堀川、南を長堀川、東は東横堀川、西を西横堀川といった具合です。これらの川や堀に囲まれてつくられた街区が船場であり、その周辺には物資倉庫が立ち並んでいきます。当時の運搬は水運が中心ですから、船から直接倉庫へと荷揚げができるのは非常に効率的なのです。こうして「水の都」大阪の基礎は形作られていきました。

 

徳川時代にも繁栄した「天下の台所」

 

大阪夏の陣で荒れ果ててしまった大阪城と大阪の街でしたが、徳川氏に直轄領を任された松平忠明は、豊臣秀吉の後を継ぐような形で河川改修や大阪市全面積の3分の1に相当する湿地の新田開発など、積極的な街づくりを行いました。東京湾は、当時の航海技術では難所と言われる場所が多く存在し、江戸という街は海運に不向きな場所でした。その結果、諸藩も蔵屋敷を大阪に置くことも多く、年貢米をはじめ、多くの物資が諸国から運ばれ、貯蔵されるようになります。こうして江戸時代には「天下の台所・大阪」が発展していった訳です。もちろんその中心に「大阪城」はありました。商業の中心地に「城」を築城する。戦国時代から太平の世へと移行していく時代に建てられた「難攻不落」の城、大阪城。その魅力はやはり街と共に存在していたのだと思います。

 

「廃城令」を待たずに大阪城は焼失してしまった

 

1868年1月3日、王政復古の大号令の後、二条城から追われた将軍徳川慶喜は大坂城に移り、居城していました。しかし1868年1月27日の鳥羽・伏見の戦いでの敗北後、慶喜は船で江戸へ逃げ帰ってしまいます。江戸城と同じく、大坂城も無血開城で新政府軍に開け渡されることになったわけですが、主を急に失って相当混乱していたんでしょう。どこからともなく出火し、本丸御殿以下本丸にあった11基の三重櫓や桜門、山里門、姫門など本丸のすべての門、二ノ丸の巽、艮、太鼓、四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失してしまいました。その後、新政府軍によって陸軍用地として使われることとなり、火砲や車両などの重兵器を生産する工場が設けられます。

 

そのことで太平洋戦争では空襲の的になってしまいます。1868年の火災では被害を免れた二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋門が焼失、また青屋門に甚大な被害を受けてしまいます。特に終戦前日の空襲は、1トン爆弾が多数投下されたのですが、天守閣は天守台が損傷したものの破壊はなんとか免れました。

 

焼失を免れた大阪城の櫓(やぐら)、2020年に特別公開

 

大阪冬の陣、夏の陣、幕末の動乱、そして太平洋戦争と、幾度となく戦火に襲われた大阪城。建造物として残存している建物は少ないですが、重要文化財として認定されている櫓が現在(2020年8月現在)公開中です。

 

「櫓(やぐら)」とは敵の攻撃から天守閣を護るために造られた建造物です。通常は城を攻める側からの視点でしかみられませんが、内部公開されているので、城を守る側の視点からみることができる、とても貴重な機会です。

 

多聞櫓(たもんやぐら)

大手門をくぐると、漢字の口の字のような形をしているのが「多聞櫓(たもんやぐら)」です。1628年に建造されたのですが、落雷によって焼失してしまい、1848年に再建されています。幕末の動乱では焼失を免れたようです。

 

ちなみに「多聞櫓」とは長屋状の櫓のことを指します。中に入るとよくわかりますが、格子のような縦長の窓から鉄砲を出すと攻め込んできた敵兵を狙い撃ちできます。内部や予想以上に広く、城の守護を行っていた兵士がわらわら大勢いた様子が目に浮かぶようです。例えば、大門を下から見上げると3つの横長い穴らしきものが見えるのですが、内部に入ってみるとこれが恐ろしい仕掛けだということがよくわかります。「槍落とし」といって、敵兵が門を通過するときに槍を落として敵兵を倒すのです。籠城していた兵士の当時の気持ちになれる、最高の場所のひとつであることは間違いありません。

 

千貫櫓(せんがんやぐら)

大阪城の正門、大手口近くのお堀から伸びる石垣の上にそびえ立つ千貫櫓は1620年に築かれた、二層二階の隅櫓です。ちなみに隅櫓とは城郭の角に建てられた櫓のことを指します。神々しい美しさがありますが、名前の由来は外見上の特徴からではありません。石山本願寺攻めに手を焼いていた織田信長が、「あの櫓を落としたものは銭を千貫(今の一億円くらい)与える」と言ったとか言わなかったとか。その後2回建て替えられているのですが、名前は引き継がれていったそうです。城内では乾櫓とともに最も古い建造物で、2020年には400年目の節目にあたり、特別公開が実現しました。

 

千貫櫓の最大の特徴は、南正面から見ると、右に約1.8度傾斜している(櫓内に入ると北東に約1.9度傾斜していることがわかる)ことです。。地盤沈下に合わせて建物も歪んでしまっています。千貫櫓に入ってみると水平垂直ではないため、気分が悪くなってしまう人もいるようです。(ちなみに傾いた建物で有名なピサの斜塔は約4度の傾斜です)

 

格子窓越しにお堀にかかっている橋がよく見えます。城攻めのために橋を渡る兵を、これまた鉄砲で狙い撃ちですね。

 

焔硝蔵(えんしょうぐら)

「焔硝(えんしょう)」とは、硝石(しょうせき)を精製して作る硝酸カリウムのことで、焔硝に硫黄(いおう)と木灰を混ぜると黒色の火薬になります。江戸時代には火薬を貯蔵した櫓を焔硝蔵と呼んでいました。戦国時代の姿で残されているのは、大阪城の焔硝蔵のみです。

 

建造されたのは1685)、直轄領である大坂城代を務めた常陸国土浦藩主、土屋政直によるものです。実は1660年に発生した落雷によって、火薬約82.5トン、鉛玉大小約43万発、火縄が約3万6千が大爆発を起こしてしまいました。(ちなみに2020年にレバノンで大爆発を起こした原因は硝酸ナトリウムだったという説がありますが、ともに火薬や肥料などに使用されています)

 

その大爆発から25年後に新築されたものが今残っている焔硝蔵となります。(落雷の日が豊臣秀吉の月命日だったため、秀吉の祟りだという噂もあったようです)

 

蔵と言っても木で造られているわけではなく、壁、天井、床は石造りです。天井の屋根部分は瓦を敷くため一部木材が使われています。あまり見かけない造り方をされているので、見ごたえはたっぷりです。

 

公開期間/土日祝日限定 2020年3月1日(日)~11月29日(日)

夏季連日公開 :2020年8月1日(土)~8月16日(日)※定休なし

※開催期間が変更になりました。

  • 公開時間/10:00〜16:30(最終入場16:00)※チケット販売終了15:30
  • 入場料金/櫓入場券 大人(高校生以上)700円・小人(中学生以下)300円、

天守閣セット券 大人(高校生以上)1,200円

 

大阪城にある巨石に思いを馳せる

 

大阪城には100トンを越える巨石がいくつも使われています。石垣などに使われている石はすべて「花崗(かこう)岩」ですが、大阪城の近くには「花崗岩」を採石できる場所はありません。産地は瀬戸内海に浮かぶ、小豆島(しょうどしま)や犬島などです。証拠として、藤堂家を表す刻印のある石が香川県小豆島町で発見されています。江戸城は伊豆半島の海岸線から運んできたそうですから、それに比べると距離的には運びやすかったような気がするのですが、実際は困難の連続でした。海岸線で採石した石は潮の満ち引きを利用して船に積みます。海路で大阪城まで運び、海岸からの陸路は修羅(しゅら)という、太さ1,2m~1,5mの硬い木を格子状に組んで梯子状の枠木の上に石を乗せ、修羅の下には丸太を置いて引いていました。転覆、沈没事故はよく起こっていたそうで、川底に落ちてしまった石で川底が浅くなり、水運に支障が生じたなんてこともあったのだとか。今でも淀川などに沈んでしまった巨石がありそうですね。

 

大阪城には目に見えているところの石だけで50万個もの石があります。それを考えると落としてしまった石も千個くらいありそうですね。

 

表面積一位:蛸石

桜門枡形虎口内にある巨石で、表面積は約60㎡で36畳分の広さ、重さは約130トン、厚さは約75cmとされています。姫路城を築城した池田輝政(いけだてるまさ)の三男である岡山藩の池田忠雄(いけだただかつ)によって、1624年に築かれました。名前の由来は、正面に向かって左下にある模様ではないかと言われています。

 

表面積二位:肥後石

京橋門枡形虎口にあり、表面積は約54㎡で33畳分の広さ、重さは約120トン。かつては加藤清正が運んだといわれていたので肥後石と呼ばれていましたが、前述の池田忠雄の担当区域なのでおそらくは池田忠雄が築いたのでしょう。石の下部には、石を安定させるために鉄製のくさびが打ち込まれていますが、この技法は仙台・青葉城でも見られ、江戸時代に入ってからの技法だと考えられています。

 

それにしても親子二代にわたる、築城での池田家の活躍は凄いですね。一子相伝の築城技術などがあったのでしょうか。

大阪城赤備隊(あかぞなえたい)はボランティア団体

 

大阪城赤備隊(おおさかじょうあかぞなえたい)は、名古屋城や仙台・青葉城にいる、広告宣伝を目的とした武将隊ではなく、ボランティア団体の名称です。毎月第三日曜日に、大阪城周辺で清掃活動を行っています。大阪の象徴である「大阪城」を少しでも綺麗に保ち、観光客の方に喜んでもらいたいとの気持ちで集まった方々が、ゴミ拾い活動を行っています。また、その活動を徳川・幕府軍より大阪城を守る為に活躍した真田幸村隊にちなみ、手作りの赤い甲冑(かっちゅう)を着用し、活動を行っています。清掃活動だけでなく観光客を直接楽しませることも意識しての活動、とっても素晴らしくて感動してしまいました。

 

ゴミ拾いの合間には記念撮影などにも応じていただけるようなので、ぜひ第三日曜日をめがけて訪れてみてください。

※甲冑の着用は希望者のみとのこと。大阪城の近くにお住まいで、ご興味のある方は参加してみてはいかがでしょうか。

 

・参考:大坂城赤備隊(外部リンク)

 

「大阪城」のご当地キャラは「ゆめまるくん」

 

一時期ほどではないですが、まだまだ人気のある「ゆるキャラ」。大阪城には「ゆめまるくん」というキャラクターがいます。

 

2008年に中央区制20周年を記念して公募により誕生しました。彦根城に「ひこにゃん」が生まれたのは2年前の2006年ですから、その人気にあやかってでしょうか。それにしても姫路城の「しろひめまる」の押し具合と比べ、「ゆめまるくん」には自治体の力が入っていない印象を受けてしまうのはわたしだけでしょうか。大阪には「太閤はん」というゆるキャラもいますし、それ以外にも各地で乱立していますので、分散してしまっているのかもしれません。

 

戦国時代ライターかずさんの独り言

戦国史ライターかずさん

 

いかがでしょうか。

 

戦国時代の最後に雌雄を決した「豊臣」と「徳川」。「豊臣」のお膝元である大阪城を調べれば調べるほど、徹底して「徳川」側が「豊臣」色排除を行っていたことがわかります。さらに、大阪夏の陣で荒れ果ててしまった大阪を徳川家の天領として復活させることに成功させました。

 

自分たちの土地を荒らしていった「徳川」家に統治されていた、当時の大阪の人達の気持ちはいかばかりだったのでしょうか。大阪の方が東京に対して抱くライバル心は、日本で一番大きな都市と二番目の都市という関係だけでなく、歴史的な背景も関係しているのではないかと思わずにはいられません。商売が発展しやすい「水の都」であったこと以外にも、「武家社会」への対抗心もあったのではないかと思います。ぜひ「大阪城」に訪れた際には、徳川時代の「大阪城」の上に、豊臣時代の「大阪城」を上塗りして楽しんでいただきたいなと思いました。

 

参考URL:

・大坂城豊臣石垣公開プロジェクト

・大阪市中央区:ゆめまるくんの部屋

・大阪ミュージアム

・特別史跡 大阪城公園

 

はじめての戦国時代

 

 

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かずさん

かずさん

ライター自己紹介: 歴史との出会いは小学生の頃、図書館にあった日本の歴史に関する「漫画」でした。その後、ベタですがNHKの大河ドラマが好きすぎて「戦国時代」と「幕末」にはまっていきました。最近では城郭考古学者である千田先生の影響で「城」に一番の興味を持っています。先陣をきって攻めている足軽の気持ちになっての城散策が最高に楽しいです。 好きな歴史人物: 土方歳三、前田慶次、山本勘助、北条早雲、関羽雲長 etc 何か一言: 教科書で習ったイメージと事実とのあまりにも大きなギャップに驚きを隠せない今日この頃です。

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