大阪城とはどんなお城?徳川時代にも繁栄した「天下の台所」楽しみ方や秘密・魅力をご紹介


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大阪城とはどんなお城?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大阪城をシンボルとした豊臣秀吉の街づくりを検証しよう!

 

上町台地の北の端にある「大阪城」から、上町台地を10km以上南下すると、当時の商業や海外貿易の中心地であった、外港「」に着きます。豊臣秀吉は朝鮮出兵を行ったことからも、海外進出を強く意識していたことがわかります。京都、堺、瀬戸内海、そして大陸へと続くルートの中核的な役割を担うべく、大阪城の南側を中心に街づくりを行いました。

 

大阪城築城時と同時に水運を街づくりに活用するため、自然の川と人工的に造った堀を巡らせています。北に土佐堀川、南を長堀川、東は東横堀川、西を西横堀川といった具合です。これらの川や堀に囲まれてつくられた街区が船場であり、その周辺には物資倉庫が立ち並んでいきます。当時の運搬は水運が中心ですから、船から直接倉庫へと荷揚げができるのは非常に効率的なのです。こうして「水の都」大阪の基礎は形作られていきました。

 



徳川時代にも繁栄した「天下の台所」

 

大阪夏の陣で荒れ果ててしまった大阪城と大阪の街でしたが、徳川氏に直轄領を任された松平忠明は、豊臣秀吉の後を継ぐような形で河川改修や大阪市全面積の3分の1に相当する湿地の新田開発など、積極的な街づくりを行いました。東京湾は、当時の航海技術では難所と言われる場所が多く存在し、江戸という街は海運に不向きな場所でした。その結果、諸藩も蔵屋敷を大阪に置くことも多く、年貢米をはじめ、多くの物資が諸国から運ばれ、貯蔵されるようになります。こうして江戸時代には「天下の台所・大阪」が発展していった訳です。もちろんその中心に「大阪城」はありました。商業の中心地に「城」を築城する。戦国時代から太平の世へと移行していく時代に建てられた「難攻不落」の城、大阪城。その魅力はやはり街と共に存在していたのだと思います。

 

「廃城令」を待たずに大阪城は焼失してしまった

 

1868年1月3日、王政復古の大号令の後、二条城から追われた将軍徳川慶喜は大坂城に移り、居城していました。しかし1868年1月27日の鳥羽・伏見の戦いでの敗北後、慶喜は船で江戸へ逃げ帰ってしまいます。江戸城と同じく、大坂城も無血開城で新政府軍に開け渡されることになったわけですが、主を急に失って相当混乱していたんでしょう。どこからともなく出火し、本丸御殿以下本丸にあった11基の三重櫓や桜門、山里門、姫門など本丸のすべての門、二ノ丸の巽、艮、太鼓、四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失してしまいました。その後、新政府軍によって陸軍用地として使われることとなり、火砲や車両などの重兵器を生産する工場が設けられます。

 

そのことで太平洋戦争では空襲の的になってしまいます。1868年の火災では被害を免れた二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋門が焼失、また青屋門に甚大な被害を受けてしまいます。特に終戦前日の空襲は、1トン爆弾が多数投下されたのですが、天守閣は天守台が損傷したものの破壊はなんとか免れました。

 

焼失を免れた大阪城の櫓(やぐら)、2020年に特別公開

 

大阪冬の陣、夏の陣、幕末の動乱、そして太平洋戦争と、幾度となく戦火に襲われた大阪城。建造物として残存している建物は少ないですが、重要文化財として認定されている櫓が現在(2020年8月現在)公開中です。

 

(やぐら)」とは敵の攻撃から天守閣を護るために造られた建造物です。通常は城を攻める側からの視点でしかみられませんが、内部公開されているので、城を守る側の視点からみることができる、とても貴重な機会です。

 

多聞櫓(たもんやぐら)

大手門をくぐると、漢字の口の字のような形をしているのが「多聞櫓(たもんやぐら)」です。1628年に建造されたのですが、落雷によって焼失してしまい、1848年に再建されています。幕末の動乱では焼失を免れたようです。

 

ちなみに「多聞櫓」とは長屋状の櫓のことを指します。中に入るとよくわかりますが、格子のような縦長の窓から鉄砲を出すと攻め込んできた敵兵を狙い撃ちできます。内部や予想以上に広く、城の守護を行っていた兵士がわらわら大勢いた様子が目に浮かぶようです。例えば、大門を下から見上げると3つの横長い穴らしきものが見えるのですが、内部に入ってみるとこれが恐ろしい仕掛けだということがよくわかります。「槍落とし」といって、敵兵が門を通過するときに槍を落として敵兵を倒すのです。籠城していた兵士の当時の気持ちになれる、最高の場所のひとつであることは間違いありません。

 

千貫櫓(せんがんやぐら)

大阪城の正門、大手口近くのお堀から伸びる石垣の上にそびえ立つ千貫櫓は1620年に築かれた、二層二階の隅櫓です。ちなみに隅櫓とは城郭の角に建てられた櫓のことを指します。神々しい美しさがありますが、名前の由来は外見上の特徴からではありません。石山本願寺攻めに手を焼いていた織田信長が、「あの櫓を落としたものは銭を千貫(今の一億円くらい)与える」と言ったとか言わなかったとか。その後2回建て替えられているのですが、名前は引き継がれていったそうです。城内では乾櫓とともに最も古い建造物で、2020年には400年目の節目にあたり、特別公開が実現しました。

 

千貫櫓の最大の特徴は、南正面から見ると、右に約1.8度傾斜している(櫓内に入ると北東に約1.9度傾斜していることがわかる)ことです。。地盤沈下に合わせて建物も歪んでしまっています。千貫櫓に入ってみると水平垂直ではないため、気分が悪くなってしまう人もいるようです。(ちなみに傾いた建物で有名なピサの斜塔は約4度の傾斜です)

 

格子窓越しにお堀にかかっている橋がよく見えます。城攻めのために橋を渡る兵を、これまた鉄砲で狙い撃ちですね。

 

焔硝蔵(えんしょうぐら)

「焔硝(えんしょう)」とは、硝石(しょうせき)を精製して作る硝酸カリウムのことで、焔硝に硫黄(いおう)と木灰を混ぜると黒色の火薬になります。江戸時代には火薬を貯蔵した櫓を焔硝蔵と呼んでいました。戦国時代の姿で残されているのは、大阪城の焔硝蔵のみです。

 

建造されたのは1685)、直轄領である大坂城代を務めた常陸国土浦藩主、土屋政直によるものです。実は1660年に発生した落雷によって、火薬約82.5トン、鉛玉大小約43万発、火縄が約3万6千が大爆発を起こしてしまいました。(ちなみに2020年にレバノンで大爆発を起こした原因は硝酸ナトリウムだったという説がありますが、ともに火薬や肥料などに使用されています)

 

その大爆発から25年後に新築されたものが今残っている焔硝蔵となります。(落雷の日が豊臣秀吉の月命日だったため、秀吉の祟りだという噂もあったようです)

 

蔵と言っても木で造られているわけではなく、壁、天井、床は石造りです。天井の屋根部分は瓦を敷くため一部木材が使われています。あまり見かけない造り方をされているので、見ごたえはたっぷりです。

 

公開期間/土日祝日限定 2020年3月1日(日)~11月29日(日)

夏季連日公開 :2020年8月1日(土)~8月16日(日)※定休なし

※開催期間が変更になりました。

  • 公開時間/10:00〜16:30(最終入場16:00)※チケット販売終了15:30
  • 入場料金/櫓入場券 大人(高校生以上)700円・小人(中学生以下)300円、

天守閣セット券 大人(高校生以上)1,200円

 

大阪城にある巨石に思いを馳せる

 

大阪城には100トンを越える巨石がいくつも使われています。石垣などに使われている石はすべて「花崗(かこう)岩」ですが、大阪城の近くには「花崗岩」を採石できる場所はありません。産地は瀬戸内海に浮かぶ、小豆島(しょうどしま)や犬島などです。証拠として、藤堂家を表す刻印のある石が香川県小豆島町で発見されています。江戸城は伊豆半島の海岸線から運んできたそうですから、それに比べると距離的には運びやすかったような気がするのですが、実際は困難の連続でした。海岸線で採石した石は潮の満ち引きを利用して船に積みます。海路で大阪城まで運び、海岸からの陸路は修羅(しゅら)という、太さ1,2m~1,5mの硬い木を格子状に組んで梯子状の枠木の上に石を乗せ、修羅の下には丸太を置いて引いていました。転覆、沈没事故はよく起こっていたそうで、川底に落ちてしまった石で川底が浅くなり、水運に支障が生じたなんてこともあったのだとか。今でも淀川などに沈んでしまった巨石がありそうですね。

 

大阪城には目に見えているところの石だけで50万個もの石があります。それを考えると落としてしまった石も千個くらいありそうですね。

 

表面積一位:蛸石

桜門枡形虎口内にある巨石で、表面積は約60㎡で36畳分の広さ、重さは約130トン、厚さは約75cmとされています。姫路城を築城した池田輝政(いけだてるまさ)の三男である岡山藩の池田忠雄(いけだただかつ)によって、1624年に築かれました。名前の由来は、正面に向かって左下にある模様ではないかと言われています。

 

表面積二位:肥後石

京橋門枡形虎口にあり、表面積は約54㎡で33畳分の広さ、重さは約120トン。かつては加藤清正が運んだといわれていたので肥後石と呼ばれていましたが、前述の池田忠雄の担当区域なのでおそらくは池田忠雄が築いたのでしょう。石の下部には、石を安定させるために鉄製のくさびが打ち込まれていますが、この技法は仙台・青葉城でも見られ、江戸時代に入ってからの技法だと考えられています。

 

それにしても親子二代にわたる、築城での池田家の活躍は凄いですね。一子相伝の築城技術などがあったのでしょうか。

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かずさん

かずさん

ライター自己紹介: 歴史との出会いは小学生の頃、図書館にあった日本の歴史に関する「漫画」でした。その後、ベタですがNHKの大河ドラマが好きすぎて「戦国時代」と「幕末」にはまっていきました。最近では城郭考古学者である千田先生の影響で「城」に一番の興味を持っています。先陣をきって攻めている足軽の気持ちになっての城散策が最高に楽しいです。 好きな歴史人物: 土方歳三、前田慶次、山本勘助、北条早雲、関羽雲長 etc 何か一言: 教科書で習ったイメージと事実とのあまりにも大きなギャップに驚きを隠せない今日この頃です。

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