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この記事の目次
栄光か野垂れ死にか?大航海時代が幕を開ける
スペインやポルトガルが初めて外洋に乗り出した時、航海は遭難や難破、敵からの襲撃や壊血病や疫病感染、船内での暴動等で乗組員の生存率は20%にも満たないと言われる劣悪さでした。
それでも、遠征が成功し新航路が発見され新しい領土が獲得されると、海外進出の利益が莫大である事が立証されます。つまり、貧者や犯罪者、あるいは下層民でも、健康と不屈の精神と才覚と幸運次第では一夜にして王侯貴族に匹敵する富と名声が転がり込むのです。
それは、一刻も早く海に出た者の早い者勝ちであり、スペインとポルトガルを中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れました。
大航海時代が軌道に乗ると、宗教改革でプロテスタントに押されたカトリックも使命感溢れる宣教師をスペイン・ポルトガルの船に乗せ両国が獲得した領土の住民に対する布教を本格的に開始。
戦国日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの所属した有名なイエズス会も大航海時代の機運に乗り、1540年にパウルス3世により認可された団体でした。
アフリカ・アジア航路の開拓
大航海時代、最初に外洋に出たのは逸早くイスラム勢力を駆逐したポルトガルでした。
ポルトガルはイスラムに征服されていた反動で、領土拡大の意欲に燃え、ジョアン1世の命を受けた3人の王子が西暦1415年西アフリカのセウタを攻略この年を大航海時代の始まりと位置付ける事もあります。
この後、ポルトガルは1460年頃までに、カナリア諸島、マディラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出。さらに象牙海岸、黄金海岸を経て、1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を開始し、1488年には、バルトロメウ・ディアスが船団を率いて困難の末にアフリカ南端に辿り着きます。
ディアスは、さらにインドを目指しますが強風に行く手を阻まれ、さらに世界の果ては崖と信じる迷信深い乗組員の反乱も発生。やむなく帰路に発見した岬を「嵐の岬」と名付けて帰還しました。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は、「嵐の岬」を喜望峰と改名します。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ船団を率いてリスボンを出港してインドを目指します。航海の目的は、ヨーロッパ人として初めてのインドとの直接交易でした。
先人達の知識をもとに4カ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回りモザンビーク海峡に至り、イスラム商人と出会うとインド航路に関する情報を収集。1498年5月20日、ついにヨーロッパ人としてはじめてインドのカリカットに到着し、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰る事に成功します。
1509年には、フランシスコ・デ・アルメイダが国王の命令で遠征艦隊を率いて、グジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカットのイスラム連合海軍と戦いアラビア海のディーヴ沖海戦で勝利し、インドとの直接交易を獲得します。
その後もポルトガルは順調にマレー半島、セイロン島を侵略し、1557年にはマカオに要塞を築き極東の拠点とします。途上、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えました。
スペインの新大陸発見
同じ頃、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに援助を持ち掛けますが、すでにアフリカ航路を開拓して、インドまで、あと一歩だったポルトガル王家は興味を示しませんでした。
コロンブスは、それならばとスペインに話を持って行き、ポルトガルに遅れを取っていたフェルナンド5世とイザベルが計画を採用します。
こうして、コロンブスは旗艦サンタ・マリア号を中心に船団を率いてパロス港から西に出港し1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着。これはインドではなくアメリカ大陸なのですが、コロンブスはインドと信じスペインに帰還、西回りインド航路を発見したと宣言しました。
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけ、インカやアステカを征服し、先住民を牛馬のように酷使し略奪の限りを尽くします。
アメリカ航路開拓に遅れを取っていたポルトガルも1500年にはカブラルがブラジルに到達し、ポルトガル領に加えてスペイン同様に収奪を開始しました。
一方、スペインの命令でモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼランは、5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発し、1520年10月に南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピンに到着します。
その後、マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、酋長ラプラプに殺害されますが、生き残った部下が率いるビクトリア号1隻が航海を続け、1522年にセビリアに寄港、世界が丸い事を実証しました。
トリデシャリス条約とサラゴサ条約
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると、両国間に領土紛争が発生します。遅れて、ヨーロッパ諸国も海外進出を開始したので、独占体制崩壊に危機意識を持った両国は、ローマ教皇に依頼して1494年にトリデシャリス条約、1529年にはサラゴサ条約を締結しました。
トリデシャリス条約では、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることに決定。
サラゴサ条約は、1529年にスペインとポルトガルで協定したアジアにおける植民地分界線で、日本の東経133度、岡山県の上を通っています。しかし、この条約は後進国抜きに、スペインとポルトガルの都合で決められたので、イギリスもオランダも守ろうとはしませんでした。
北米大陸探検の意外な理由
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく大航海時代に乗り出したのがイギリスやフランスでした。その後、スペインからの独立を果たしたオランダなど、後発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行したポルトガルとスペインを凌駕していきます。
後発国はトリデシャリス条約により新領土獲得から排除される事を拒否し、新しい技術や地図を使い海外へと乗り出しました。
後発国による北米大陸の探検はイギリスが1497年、イタリア人ジョン・ガボットを雇って行った北米探検です。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人、ジョバンニ・ダ・ヴェラッツアーノが現在のアメリカ合衆国海岸を探検。記録に残る北米東海岸を探検した最初のヨーロッパ人になります。
でもどうして、イギリスやフランスは北米大陸を探検したのでしょうか?
それは学術的な興味というより北米大陸のどこかから太平洋に出て、インドに近道出来ないか?という興味からでした。欧州諸国は、北米大陸には当初、さほど関心もなかったのです。
この航路は、結局19世紀まで見つかる事はありませんでしたが、探検過程で北米大陸の全貌が明らかになり、多くの資源が北アメリカに眠る事を見出すと、イギリスやフランス、オランダは東海岸に植民地を築き始めます。
やがて、北アメリカの植民地は、大西洋三角貿易に繋がっていきます。三角貿易では、アフリカから黒人奴隷をアメリカ新大陸や西インド諸島に運び、そこからヨーロッパにタバコや綿花、砂糖などを運んで富を得ました。とくに北米に植民地を持つイギリスは三角貿易で得た富を資本に産業革命を推進する財源とし、世界帝国への足掛かりをつかむのです。
大航海時代の終わり
イギリスやオランダやフランスは、アフリカやインド洋にも航海し独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かします。
後発国は収奪するばかりのスペインやポルトガルモデルを注意深く観察していて、より洗練された永続できる収奪モデルを産み出して富を蓄え、スペイン、ポルトガルを凌駕していきます。
後発国は、ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを包囲、オランダがインドネシアを勢力圏に加え、香料諸島からポルトガル勢力を駆逐します。こうして、ポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは縮小没落していきました。
新興諸国は北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域もスペインより先に探検。1606年にはウィレム・ヤンツが、1642年にはアベル・タスマンなどオランダの探検家がオーストラリアを探検、17世紀中頃までに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終わりを迎えるのです。
世界史ライターkawausoの独り言
大航海時代は、①モンゴル帝国の崩壊後に勃興し地中海貿易を握ったオスマン帝国により、アジアの商品に高い関税が掛けられ困ったヨーロッパ。②地中海貿易と北海・バルト海貿易から外れ、西アフリカに販路を求めるしかなかったスペインとポルトガルがあった事。
それに③スペイン・ポルトガルがイスラムの支配から脱し、逸早く国王に権力が集中した国家を形成する事に成功し、外洋に出る国力があった事が挙げられますね。
参考:Wikipedia
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