豊臣秀吉によるバテレン追放令の内容とは?戦国時代のキリスト教事情

2020年7月25日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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ルイス・フロイス

 

戦国時代に日本に入ってきたキリスト教。信長の時代までは受け入れられ、キリシタン大名と呼ばれる存在も多くいました。しかし秀吉の時代になるとそれが一転し、やがて迫害の対象に。

 

バテレン追放令を発令した豊臣秀吉

 

そのきっかけが、バテレン追放令と呼ばれるものです。今回はその追放令が起こった背景とその内容について検証して行きます。

 

キリスト教の日本伝来での経緯

フランシスコ・ザビエル

 

キリスト教を日本に伝えたのは、フランシスコ・ザビエルというのは教科書にも出てくるほど有名な話です。中世までは一部の東方諸教会を除き、キリスト教カトリックだけが存在し、主にヨーロッパ中心の宗教でした。しかし宗教改革の波が押し寄せて誕生したプロテスタント教会への危機感。また大航海時代を迎えたことから、世界宣教に乗り出します。

 

イエズス会に属していたザビエルは、1549年にインドのゴアからジャンク船に乗り、日本を目指しました。この中には洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人が含まれています。最初に薩摩半島の坊津に上陸しました。ときは戦国時代。戦乱のさなか布教が許された一行は鹿児島に入り、カトリック教会が崇敬する聖母マリアに日本を捧げます。

一向一揆

 

この時代は、戦国大名だけでなく仏教寺院も僧兵を持って戦っている世界。中には一向一揆(いっこういっき
)
と呼ばれる、寺院が指導して戦う農民たちもいます。誰もが戦死で誰もがいつ死んでもおかしくない状態でした。そんな状況で入った新しい教えは、既存の寺社と違い、本当の救いをもたらすものと信じられ、瞬く間に広まっていきます。そして九州の大名を中心にキリスト教に改宗する者が増えて行きました。そして彼らキリシタン大名は、同時に南蛮交易にも積極的に乗り出します。

 

信長時代の方針

足利義輝

 

ザビエル一行は、京の都まで足を運び、布教の許可をもらうために後奈良天皇(ごならてんのう)や室町将軍・足利義輝(あしかがよしてる)への拝謁を誓願しますが、聞き入られず、ザビエルは失意して九州に戻りました。しかしザビエルの跡を継ぐように宣教師たちが日本で活躍をつづけ、ますますキリシタンの数が増えて行きます。

 

織田信長

 

やがて戦乱の日本に統一の動きが見えてきます。最初に登場したのが織田信長(おだ のぶなが
)
。信長は京を中心に勢力を広げ、やがて室町幕府を滅ぼし、天下人としてその存在をあらわにします。そんな信長はキリスト教に対しては寛容の姿勢を示し、庇護します。当時は戦国大名化した石山本願寺(いしやまほんがんじ
)
や比叡山延暦寺(えんりゃくじ
)
と対立していたことが背景にありました。またイエズス会が信長の軍資金のスポンサーという説もあります。そして宣教師のルイス・フロイスは、信長と面会しキリスト教の布教許可をもらっています。

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長a

 

ただし信長自身がキリシタン大名のように改宗したという記録はありません。あくまで自らが目指す天下不武実現のために、キリスト教を利用したにすぎないのでした。信長は志半ばにて1582年に、本能寺にて果ててしまいます。ちなみに、信長がそのまま生き長続けて、天下を取った後にキリスト教に対して同様の庇護をしたかどうかは未知数。場合によっては、この後紹介する秀吉や家康らと同じことをした可能性が高いです。

 

秀吉政権初期のキリスト教

不敵な笑みで豊臣秀吉を励ます黒田官兵衛

 

信長亡き後、天下人として名乗りを上げたのが秀吉です。瞬く間に信長に代って天下人として突き進み、1590年に日本全国を統一します。そんな秀吉とキリスト教との関係ですが、当初は信長同様に庇護しており、友好的で優遇しました。ただし、これはキリスト教だけの話ではありません。神社仏教にも同様に寛大な姿勢を取ります。

 

本願寺顕如

 

例えば比叡山の再興をしたり、本願寺側とも手を組んだりします。本願寺・顕如(けんにょ)が九州遠征時に先導を務めるほどの関係まで回復していました。天下人を目指す秀吉にとっては、あくまでキリスト教も神社仏教も自らの野望のために利用しているだけにすぎません。そして逆に邪魔な存在となれば、一転排除をすることになります。それは秀吉自身が九州の島津を討伐するときのことでした。大友宗麟(おおともそうりん)からの要請を受け、大軍勢を率いて九州統一目前の島津と激突、数の力で圧倒し島津を支配下に治めます。

 

セミナリオ(教会)

 

ところがこの一連の戦いの中で秀吉は九州におけるキリスト教・イエズス会の勢力があまりにも大きいことに驚きます。例えば肥前の国の長崎港では、キリスト教徒が跋扈(ばっこ)しており、あたかもポルトガルの植民地の様なありさまになっていたのです。天下統一を目指していた秀吉が見た、他国に支配されている状況。その元凶にキリスト教がと考えたとき、ついに初めてのキリスト教への迫害・バテレン追放令公布とつながります。

 

1587年に秀吉が発したバテレン(伴天連)追放令とその内容

豊臣秀吉 戦国時代

 

では、実際に秀吉はどのようなバテレン(伴天連)追放令を出したのかを確認します。まずこれは1587(天正15)年に、豊臣秀吉が九州討伐を終えて滞在していた筑前箱崎(現:福岡市)で発令した文章です。ちなみに伴天連とはポルトガル語で神父の意味をもつpadreからきています。

 

「天正十五年六月十八日付覚」から始まるこの文章は11条からなるものですが、一向宗のことなどキリスト教と無関係のものもあります。関連する大まかな内容は次の通りです。1、自らがキリスト教徒かどうかは自由。2、土地を治める大名が一般の農民にキリスト教を押し付けることはあってはならない。なぜならば大名は国替えをすることがあるが、農民は国を移動しないからである、3、知行(領地)が少ないものの信仰は自由であるが、多いものは秀吉の許可をもらうこと。4.外国に日本人を売る行為は禁止する。

 

また『吉利支丹伴天連追放令』では次のことが書かれています。1.日本は元々神々の国なのにキリスト教の国から邪教が来るのは悪いこと。2.大名が天下の法律を破り、一般人を信者にして寺社を壊されることはあってはならない。3.キリスト教の宣教師は自由意志で信者にしていると思っていたが、そうではないようだ。だから日本に宣教師はおけない。4.そういう理由だから、今から20日以内に祖国に帰れ。また貿易船は商売目的だから許す。5.もし日本の仏教を妨げないのなら戻って来ても構わない。

追放令の原因① 拡大と反乱のリスク

 

このようにバテレン追放令は、キリスト教そのものを禁止したのではなく、キリスト教の宣教師や大名の目に余る行動を戒めた意味合いが強いです。それではこのような追放令を出した原因ですが、ひとつめはキリスト教の拡大と秀吉政権に対する反乱を起こすリスクを考えてと言うのがありました。

 

一向一揆(農民)

 

これは信長の時代に頭を悩ましたのが一向一揆でしたが、それは身分の低い農民が中心です。ところがキリスト教は大名も改宗しているという点がありました。もしこの大名がキリスト教の名のもとに反乱を起こると大変なことになるというもの。特に問題視したのは、イエズス会日本支部の準管区長「ガスパール・コエリョ」の軽率な行動もありました。コエリョは日本全土が改宗した際には、中国に日本人兵で攻める案を持っていました。

 

また九州のキリシタン大名を糾合して秀吉と対立させようとするなど、野心家としての動きを見せていたからです。宣教師が悩んでいる個人に心の問題として布教する分にはともかく、大名を巻き込んで勢力を拡大しようという行為に秀吉が黙っているわけにもいかず、そのようなことをけしかけるバテレンを追放しようと考えていたようです。

 

追放令の原因② 神道・仏教の迫害阻止

五重塔(仏塔)仏教

 

次に、神道・仏教への迫害の問題がありました。戦国時代には特に仏教が大名のように武力を持って領土を支配し、信長がそれと対峙している構図がありました。しかし秀吉の時代になると、そういった仏教の勢力がそぎ落とされ、脅威ではなくなります。ところが代わりに入ってきたキリスト教の布教により増えたキリスト教徒が、神社仏教を破壊する行為を平気で始めます。

 

それをキリシタン大名が後押しした形跡があり、特に有馬・大村の両大名が積極的に行っていました。秀吉はコエリョに「神仏の寺院を破壊して像を焼く理由」を問いただすと、コエリョは「真理を知ったものは、キリスト教以外に救いがないことを悟り、救いに全く役に立たない神仏に対して、自ら決断して建物や像を破壊しているのです」と答えました。

 

そのような日本古来の宗教を平気で破壊することは自由であるという行為は、そのままポルトガルなどの異国の文化がそのまま日本に入ることです。つまりそれらの国に支配されることへの警戒感につながりました。そのようなことから秀吉をバテレン追放令を発布するきっかけになったことは間違いないようです。

 

追放令の原因③ ポルトガル人の奴隷貿易

モザンピーク出身の弥助(奴隷時代)

 

3番目に、ポルトガル人の奴隷貿易というのがありました。ザビエルが日本で布教を開始し、キリスト教徒が増える一方、ポルトガル等の諸外国は日本との貿易に乗り出しました。高山右近(たかやまうこん)などの一部を除き、大多数の戦国大名たちはその貿易で富を得ることを目的として、キリシタン大名に改宗して行きます。

 

ところがその貿易の中には人身売買が含まれていました。古くから奴隷制度があるポルトガルでは、日本を含めアジア諸国の人たちを奴隷として売買することをはじめます。1555年の教会の記録として、ポルトガル人が多数の日本人少女を買い取ってポルトガルに連れて帰ったということがあります。その目的は性的な理由でした。

 

そのような行為に警戒した秀吉は、コエリョを召還して叱責しており、奴隷貿易を禁止する目的でバテレン追放令を発布したとされます。しかし11か条の「覚書」には記載されていますが、「追放令」そのものには記載されていません。これは秀吉だけでなくイエズス会も否定的で、日本人奴隷の禁止をポルトガル政府に呼びかけていました。またポルトガル国王セバスティアン1世もこの行為が宣教に悪影響が出るということで、1571年に日本人奴隷交易の中止を命令しています。ちなみに秀吉の怒りは相当なもので、インドまで流れ着いた日本人を連れ戻すように言い渡したほどでした。

 

追放令の原因④ キリシタン女性の拒否

 

最後に、これは原因として挙げられていますが、最も信憑性の薄いものとして扱われています。内容は次の通りです、ある日秀吉が大名の有馬に関係する女性を連れてくるよう命令します。ところがその女性はキリシタンでした。そして秀吉の命令を拒否したために、激怒した秀吉が発布したというもの。側室も多くいた秀吉の女漁りが失敗した結果ということですが、これは実際とは違うとされます。

 

正確には女性を連れて行こうとしたのは秀吉ではなく、施薬院全宗(やくいんぜんそう)という医者でした。平安時代の名医の末裔で僧でもあった彼は、1585(天正13)年に発生した大飢饉と疫病の流行に対して、祖先の「施薬院」の復興を願い出たところ、勅命を受け従五位下に叙されました。

 

地位と権力を経た全宗がものにしようとしたところ、女性が言うこと聞かないことを腹立て、秀吉に讒言したのでした。しかし他の理由と比べてあまりにも個人的な内容なので、信ぴょう性に疑問があります。ちなみにバテレン追放令の筆を執ったのが全宗。そしてキリシタン追放に活躍したと記録されます。

 

追放令発令後の影響

 

秀吉による伴天連追放令が出たことで、それまで自由に布教活動をしていた宣教師たちはそれまでの行動を戒めます。宣教師たちは長崎の平戸に集結。この街の北側には度島と呼ばれる小さな島がありました。この島の所有者はキリシタンの籠手田(こてだ)氏です。

 

そしてその島の中には洞窟があり、重大な会議が行われました。その中には「日本占領計画」という危険なものが含まれています。それは長崎を軍事要塞にして植民地化しようというもの。周辺のキリシタン大名に持ちかけましたが、大名たちはこの提案には否定的。そのため幻に終わりました。一方追放令発令後に秀吉が具体的に起こした行動は、京都にある南蛮寺(教会)の破却と長崎に遭った公館と教会堂の接収を行います。

 

しかし秀吉はこの時点では、それ以上キリスト教に対して厳しい措置は取りませんでした。あくまで大名や宣教師たちが強制的に農民を改宗させている好意に対して禁じているのであって、個人がキリスト教を信じることまでに対して否定的ではありません。またそれ以上に南蛮貿易という存在がありました。貿易で多くの富を得られると考えていた秀吉は、これ以上キリスト教に対して攻撃的な姿勢を取ると貿易ができなくなると考えていたからです。

1596年のサン=フェリペ号事件・秀吉が直接迫害したきっかけ

 

1587年のバテレン追放令は、初めてキリスト教に対する禁令でしたが、キリスト教そのものへの禁令でもなく、また貿易を重視していたこともあり、あまり強力なものではありませんでした。宣教師たちも表立っての布教はしないものの、各地に潜伏しながら引き続きキリスト教の教えを広めようとします。

 

ところが、9年後の1596(文禄5)年に起きたある事件をきっかけに秀吉の態度が強化します。それはサン=フェリペ号事件。この年フィリピン・マニラを出航したスペインのサン=フェリペ号は、太平洋横断を行おうとしていました。ところが東シナ海で台風の被害にもまわれ、かろうじて日本に流れ着きます。土佐沖に漂着した船を見た大名の長宗我部元親は、高知の長浜に船員たちを止めおきます。

 

その際に所持品や荷物を調べているうちに、スペインは海賊でこれまで南米のペルー、中米のメキシコ、そしてフィリピンを武力で制圧したことを知り、日本でもそれを行うために来たといった内容を秀吉に送ります。スペインと日本の国力の違いを語ったとの記録もあり、それを聞いた秀吉は直後に禁教令を発布。宣教師と修道士、日本人信徒20人の合計26人を処刑してしまいます。これは日本二十六聖人とされるもの。秀吉がキリスト教徒に対して唯一迫害した事件として記録に残ります。

 

秀吉亡き後のキリスト教① 家康が出した本格的なキリスト教禁止令

 

サン=フェリペ号事件により、秀吉がキリスト教徒に直接迫害を開始しましたが、この2年後に秀吉が死去。時代が大きく動き、関ヶ原の合戦を経て家康が天下を取り、江戸幕府が開府します。関ヶ原の合戦が起きる半年前、1600(慶長5)年3月に、イングランドのリーフデ号が日本に漂着。この船には後に三浦按針(みうらあんじん)と呼ばれる、ウイリアムアダムスが乗っていました。

 

彼はプロテスタントだったこともあり、当時日本にいたカトリックのイエスズス会からの反発はありましたが、家康は彼らを引見。プロテスタントのことを知った家康は彼を重用、布教を黙認しています。しかし禁教令自身は解除していません。とはいえ一時は再びキリスト教の宣教師が来日し、九州を中心に教会が立てられて発展しています。

 

ところが1608年に日本人が60名以上殺害された「マードレ・デ・デウス号事件」それに続いて、家康の側近・本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が起こした収賄事件などが相次ぎ、ついに家康はキリスト教に対して禁止令を出しました。それは1612(慶長17)年4月のこと。これは秀吉時代よりもより厳しい内容となっています。キリシタン大名や旗本などキリスト教徒だったの領主の改易や処刑が始まりました。このため熱狂的な元キリシタン大名高山右近は、フィリピン・ルソン島に渡ったほどです。

 

秀吉亡き後のキリスト教② 家光時代に起こった島原の乱と鎖国

 

家康による慶長の禁教令以降、本格的なキリスト教への迫害が始まりました。二代将軍の秀忠も家康に追随し、1619(元和5)年にキリシタン禁令の高札設置。1622(元和8)年の大殉教では、キリスト教徒が55名火刑や斬首されるなどの事件が相次ぎ、キリスト教徒に対して棄教を迫るようになりました。

 

1629(寛永6)年には有名な踏絵が登場。しかし度重なる迫害でも、ひそかに信仰を守る隠れキリシタンも登場します。そして1637(寛永14)年には島原の乱が勃発。元々キリシタン大名有馬氏の所領だった地で、当時の領主だった松倉勝家(まつくらかついえ)は、石高を過大に見積もったためにキリシタン弾圧と過重な労役と年貢を課していました。

 

天草四郎

 

それに爆発した民衆は、天草四郎(あまくさしろう)を頂点に、残されたキリスト教徒が集結。島原半島の原城に立てこもります。幕府軍は4カ月にわたってこれを攻撃し鎮圧。乱の主要因を起こしたとされる勝家は幕府により斬首刑に処せられました。これを持って、幕末の開国まで表だって日本国内にキリスト教徒は居なくなりました。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

キリスト教への迫害が強くなったのは家康以降で、秀吉の頃はまだ信仰の自由については認めていたのがわかります。しかし唯一神信仰を持つキリスト教は、時の権力者にとって厄介な存在。かつての古代ローマ帝国が内部から崩壊した理由もキリスト教と言われます。そんなキリスト教も幕末の開国から復帰、明治維新後もしばらく日本人は禁教でした。やがて認められ、教会が続々とできて現代に至ります。ちなみに信仰の自由は、戦後が初めてではなく、明治の大日本帝国憲法下でも保障されていました。

 

参考文献

「豊前覚書」

「高橋紹運記」

ルイス・フロイス「日本史」

太田淑子 「日本史小百科 キリシタン」東京堂出版

安野眞幸「バテレン追放令 16世紀の日欧対決」日本エディタースクール出版部

高瀬弘一郎「キリシタンの世紀 -ザビエル渡日から「鎖国」まで-」岩波人文書セレクション

 

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Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

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