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皇族たちの末路
皇帝になった孫皓はまず父の孫和に諡号を与え、生母の位を上げて太后とします。その墓を盛大なものに祀り立てる姿は、正に孫和こそ正当な後継者であったとしたかったことが伝わってくるようです。しかしその一方で、他の皇族たちはどんどんと粛清されていきました。
まず前皇帝孫休の皇后は太后から格下げ、その後孫晧によって死に追いやられます。孫休の四人の子たちは城に閉じ込められ、年長の二人は殺害されました。この頃に孫晧を皇帝にした濮陽興と張布は自らのしたことを後悔するも時すでに遅し、誅殺されることになります。果てに孫晧の三人の弟の内二人は殺害され、それを皮切りのように他の皇族たちも次々に殺害されていきました。
呉の皇族は、今や孫晧の血筋のみと言っても良い状況になったのです。
犬公方の始まりか?
しかし孫晧から死を賜ることになったのは皇族のみではありません。孫晧は忠臣と言われる人物たちも次々に粛清していきました。民衆の財産を強奪した孫晧の愛妾を法によって裁いた陳声に至っては、焼いた鋸で首を落とされるなど残酷で苛烈な殺害されたという話も残っています。
その一方で家隷からのし上がった万彧を始めとして、讒言によって取り立てられた者も少なくありません。そしてその内の一人である何定がいるのですが、この人物が行ったのが犬の献上です。
武将たちに立派な犬を献上させたので犬の値段が絹数千にまで高騰、犬につける紐は1万銭、犬一匹に兵士が一人配属、犬に食べさせるための兎が宮中の台所で調理されたので国中の兎がほとんど獲りつくされてしまうという事態にまでなったのに、孫晧はそれを忠臣と称えたと言います。正に「元祖犬公方」とも言える行動でしょう。
彼らの末路
自分以外の皇族の殺害、忠臣たちの粛清、奸臣らを寵愛、暴君のテンプレートか?とも言える孫晧の行動は、三国志の著者である陳寿からも酷評されるに至りました。
また孫晧の粛清のポイント(と言って良いのかどうか)に、自分が取り立てた奸臣らまで最終的に処刑する所にあります。前述した何定もその例にもれず、誅殺されました。
正に暴君、と言える振る舞いが多い孫晧。後の世でもその所業は恐れ、時に軽蔑されてきました。しかしその一方で学問に通じ、仏教に親しみ、司馬炎をやり込めたりと決して暗君とは言い切れないのが孫晧です。
孫皓は何を「見た」のか?
孫晧はなぜ奸臣たちを寵愛していったのか。個人的に引っかかるのが奸臣と呼ばれた彼らの多くが「元々は身分が低かったが寵愛されて急出世したこと」です。孫晧はどうして彼らを取り立てたのでしょうか。
孫晧は皇族の争いの中で育ちました。肉親で争うその有様を見て育ったのです。その中で孫晧は親族、皇族間の争いを取り除くこと、そしてもしかしたら「能力があれば身分に関わらず取り立てる」ことをやりたかったのではないかな、と思います。
もちろん自分の身を再び貶められないように、自分に耳障りの良いことを話す部下だけを取り立てた……とも言えますが、孫晧は孫晧なりに呉を立て直したかった。その結果がこの苛烈すぎる振る舞いとして出てしまったのではないか……今回、孫晧の振る舞いをみてそう感じてしまった筆者なのでした。
三国志ライター センのひとりごと
孫晧の所業は、悪行と言っても過言ではないと思います。しかし残されたエピソードを掘り起こしてみると、決してただの暴君暗君なだけではありません。行った悪行だけに注目せず、孫晧のエピソードや行動も今後、色々と解説していきたいですね。
参考文献:三国志孫晧伝が引く江表伝 呉書三嗣主伝
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