元祖・犬公方孫皓?彼はどうして「そう」したのか?

2020年9月23日


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元祖・犬公方孫皓?(1P目)

 



監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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皇族たちの末路

孫皓と張俊

 

皇帝になった孫皓はまず父の孫和に諡号(しごう)を与え、生母の位を上げて太后とします。その墓を盛大なものに祀り立てる姿は、正に孫和こそ正当な後継者であったとしたかったことが伝わってくるようです。しかしその一方で、他の皇族たちはどんどんと粛清されていきました。

 

逃亡兵の妻子(女性)に処罰を加える法律

 

まず前皇帝孫休の皇后は太后から格下げ、その後孫晧によって死に追いやられます。孫休の四人の子たちは城に閉じ込められ、年長の二人は殺害されました。この頃に孫晧を皇帝にした濮陽興と張布は自らのしたことを後悔するも時すでに遅し、誅殺されることになります。果てに孫晧の三人の弟の内二人は殺害され、それを皮切りのように他の皇族たちも次々に殺害されていきました。

 

呉の皇族は、今や孫晧の血筋のみと言っても良い状況になったのです。

 

犬公方の始まりか?

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

しかし孫晧から死を賜ることになったのは皇族のみではありません。孫晧は忠臣と言われる人物たちも次々に粛清していきました。民衆の財産を強奪した孫晧の愛妾を法によって裁いた陳声に至っては、焼いた鋸で首を落とされるなど残酷で苛烈な殺害されたという話も残っています。

 

 

その一方で家隷からのし上がった万彧を始めとして、讒言によって取り立てられた者も少なくありません。そしてその内の一人である何定がいるのですが、この人物が行ったのが犬の献上です。

 

 

武将たちに立派な犬を献上させたので犬の値段が絹数千にまで高騰、犬につける紐は1万銭、犬一匹に兵士が一人配属、犬に食べさせるための兎が宮中の台所で調理されたので国中の兎がほとんど獲りつくされてしまうという事態にまでなったのに、孫晧はそれを忠臣と称えたと言います。正に「元祖犬公方」とも言える行動でしょう。

 

彼らの末路

陳寿(晋)

 

自分以外の皇族の殺害、忠臣たちの粛清、奸臣らを寵愛、暴君のテンプレートか?とも言える孫晧の行動は、三国志の著者である陳寿(ちんじゅ
)
からも酷評されるに至りました。

 

また孫晧の粛清のポイント(と言って良いのかどうか)に、自分が取り立てた奸臣らまで最終的に処刑する所にあります。前述した何定もその例にもれず、誅殺されました。

 

正に暴君、と言える振る舞いが多い孫晧。後の世でもその所業は恐れ、時に軽蔑されてきました。しかしその一方で学問に通じ、仏教に親しみ、司馬炎をやり込めたりと決して暗君とは言い切れないのが孫晧です。

 

孫皓は何を「見た」のか?

スキッパーキ(はてな)

 

孫晧はなぜ奸臣たちを寵愛していったのか。個人的に引っかかるのが奸臣と呼ばれた彼らの多くが「元々は身分が低かったが寵愛されて急出世したこと」です。孫晧はどうして彼らを取り立てたのでしょうか。

 

孫晧は皇族の争いの中で育ちました。肉親で争うその有様を見て育ったのです。その中で孫晧は親族、皇族間の争いを取り除くこと、そしてもしかしたら「能力があれば身分に関わらず取り立てる」ことをやりたかったのではないかな、と思います。

 

もちろん自分の身を再び貶められないように、自分に耳障りの良いことを話す部下だけを取り立てた……とも言えますが、孫晧は孫晧なりに呉を立て直したかった。その結果がこの苛烈すぎる振る舞いとして出てしまったのではないか……今回、孫晧の振る舞いをみてそう感じてしまった筆者なのでした。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

孫晧の所業は、悪行と言っても過言ではないと思います。しかし残されたエピソードを掘り起こしてみると、決してただの暴君暗君なだけではありません。行った悪行だけに注目せず、孫晧のエピソードや行動も今後、色々と解説していきたいですね。

 

参考文献:三国志孫晧伝が引く江表伝 呉書三嗣主伝

 

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呉の武将

 

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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