こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
織田信長の薬草園
戦国大名と言えば、徳川家康が薬マニアとして有名ですが、一見、病気に縁が無さそうな織田信長も、ポルトガルの宣教師、フランシスコ・カブラルの勧めで伊吹山に薬草園をつくらせ50平方メートルの敷地には西洋の薬草3000種類が栽培されていたと言われています。
この薬草園は、現在存在しないものの、ヨーロッパ原産のイブキノエンドウ、キバナノレンリソウ、イブキカモジグサが、日本では伊吹山にのみ自生している事が有力な証拠になっているそうです。こうしてみると織田信長も、自身は健康であるものの、病人が多い事に気を配っていた事が分かります。もしかすると、岐阜で大量の西洋薬を製造し、南蛮渡来の妙薬として、全国に売り出そうと考えただけかも知れませんけど…
解毒薬 底野迦
戦国時代と言えば、権謀術数渦巻く時代であり、戦国大名は常に毒殺の危険と隣り合わせでした。そこで、底野迦と呼ばれる解毒剤が重宝されます。
底野迦という、変な名前から分かるように、これは日本でも中国でもなく、紀元前1世紀に黒海の南にあるポントス王国の王ミトリダテスが造った解毒剤ミトリダトが原型であるそうです。その後、底野迦は、ローマ皇帝ネロの侍医であるダモクラテスが改良し、同じく侍医のアンドロマコスが毒蛇の肉を加えて完成させました。
底野迦はアラビア人に盛んに用いられ、そこから中国に伝わり唐代の書物「新修本草」の中に底野迦として収載され日本の医心方にも収載されました。しかし、実際のテリアカは16世紀の戦国時代にポルトガル人によって日本に伝えられたと推定されます。
そう言えば、前述のカブラルもポルトガル人の宣教師でしたが、もしかして信長の薬草園にも、テリアカの材料になる薬草があったのでしょうか?
処方は、毒蛇の肉以外は不明で、60種類以上の薬草や土、動物の糞が混ぜられているとされ、毒蛇や動物の咬傷の治療に用いられました。
麒麟がくるライターkawausoの独り言
今回は、戦国時代に実際にあった薬について紹介しました。戦国時代は、医師の数も少ないですし掛かれるとしても健康保険もなく診療費も高額でした。そんな貧しい庶民でも、薬なら買えるので庶民にとっての薬は健康を維持する為に欠かせない存在だったのでしょうね。
関連記事:【麒麟がくる】近衛前久はどんな人?戦国のスパイダーマン乱世に暗躍す