ほのぼの日本史アンケートで、ほのぼの日本史で取り上げて欲しい事件は何ですか?とアンケートを取った結果、988票の投票が集まり、その中で西南戦争が33%を獲得して1位となりました。
そこで今回は、視聴者の皆さんのリクエストに応え、西南戦争について解説したいと思います。
この記事の目次
西南戦争とはどんな戦争?
西南戦争は、明治10年(1877年)に起きた士族による明治政府への反乱で、日本最後にして最大の内乱と呼ばれます。士族とは、江戸時代に武士階級にいた人々で江戸幕府討伐において尽力し明治政府樹立に貢献しましたが、その士族の一部が明治政府に内乱を起こしたのです。
そんな士族の中でも最大の鹿児島士族が中心となり西南戦争が起きるのですが、鹿児島士族のリーダーだったのが維新の三傑と呼ばれた鹿児島士族の西郷隆盛です。
ただ、最大の疑問なのが西郷隆盛はそもそも江戸幕府を倒し、明治政府を樹立した側にいた人間であるという事でした。本来ならば、明治政府を守るべき西郷隆盛がどうして明治政府に反旗を翻したのか?
この点を知れば、西南戦争の動機が見えてきます。
明治政府の政策と目的
明治政府が早急に取り組んだ政策は版籍奉還と廃藩置県です。版籍奉還とは、300もの藩にそれぞれ属していた領地と人民を天皇に奉還、つまりお返しするという事です。この時までは、中央に徳川幕府という強大な政権があったものの、その周囲の藩には独自の財政と法律がありバラバラに動いていました。
藩の規模も上は102万石から下は1万石と勢力も政治体制も大きく幅があり、天皇を中心に国家として統一した動きを取るのは不可能でした。そこで、版籍奉還を実行しますが、実際には土地と戸籍が管理できるようになっただけで各藩には藩主が残り政治を見ていました。
これでは意味がないので、武力に踏み切ってもと断行したのが廃藩置県で、藩主は地元から引きはがされ東京住まいを命じられ代わりに各地には県を置いて、中央から派遣した官僚である知事を置いて明治政府が一元的に命令できるようにしました。
この時、日本唯一の陸軍大将として廃藩置県の指揮を執ったのが西郷隆盛でした。藩が無くなった事で、人口の7%を占めていた武士は失業し明治政府に不満が集まります。しかし、廃藩置県は、中央集権化に成功した日本が、富国強兵を実現させ、西洋列強に肩を並べる大きな原動力になりました。
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明治政府の地租改正
地租改正とは、土地に関係する税金の改正です。昔の税金と言えば米を収める年貢と言う物納方式で、実際に平安時代から江戸時代まで年貢により財政が整えられました。
しかし、米は毎年の天候や気温で出来・不出来が変わるので財政は不安定です。明治政府はちゃんと予算を決めて政治を行わねばならないので、米ではなく土地に税金を掛ける事に決めました。
お金であれば、不作や豊作に関係なく、決まった金額が政府に納税されるからです。この土地に税金をかける事を地租と言い、当初は土地の価格の3%が税金とされました。
一方で、当時の日本の人口の大多数を占めた農民は、農作物を売却してお金をつくらないといけないので農作物の価格が下がると、必然的に地租が重くなり、主に年貢が軽かった幕府の直轄領で地租軽減の一揆が相次ぎ、地租は2.5%にまで引き下げられています。
西南戦争の遠因 征韓論
征韓論とは明治新政府発足後の日本で唱えられた「朝鮮を武力で開国させよう」という主張です。
明治6年当時、李氏朝鮮は日本と違い鎖国攘夷が国是であり、日本に対しても古式を捨てて洋夷の習俗を取り入れたとして明治政府の国書受け取りを拒否。対日感情を悪化させ、在留邦人と交流した朝鮮人を処罰する法律が出たりしました。
頑なな李氏朝鮮の態度に対し、日本国内でも朝鮮への不満が高まり、当時、岩倉使節団として欧米視察旅行に出ていた政府要人に代わり留守政府を預かっていた江藤新平や、西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎のような人々も征韓論を主張します。
しかし、征韓論と言っても朝鮮が開国しなければ武力攻撃も辞さずという板垣退助から、西郷隆盛のように古式に則った礼服で単身商船で朝鮮に渡り、外交交渉で李氏朝鮮を開国させると主張した人までグラデーションがありました。
結局、西郷隆盛の主張が通り、強硬派の板垣に対しては、自分が朝鮮に渡り殺されるような事があれば、その時は軍を出しても道義は通ると説得します。西郷は徹頭徹尾、征韓論というより遣韓論であり、李氏朝鮮に開国してもらい、日朝共にロシアの南下に備えようというものでした。
もちろん、政治的リアリストである西郷が、それでも李氏朝鮮が開国を拒んだ場合、武力開国を選択しなかったとは言い切れませんが、問答無用で大砲を向ける当時の帝国主義のやり方と大きく異なっているのは事実です。
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