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【三国志のギモン】逃亡した兵士はどこに消えるのか?


 

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兵士 朝まで三国志

 

三国志の時代は騒乱の時代であり、・呉・蜀とも兵士を徴発して果てしない戦いを繰り返していました。しかし、全ての兵士が勇敢に戦うわけではなく、苦しい戦闘に耐えられず、あるいは死の恐怖に耐えかねて逃亡してしまう兵士も多くいました。

 

劉邦

 

しかし、そうして逃げてしまった兵士はどこに消えてしまうのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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故郷に戻れない兵士は街に紛れ込む

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

逃亡した兵士は本来なら故郷に帰りたいと願う事でしょう。家族がいればなおさらです。でも、それは叶わぬ夢で、すでに脱走の事実は故郷に伝わり官憲(かんけん)の手が伸びていました。

 

もちろん、「○○が帰ってきたら報告せよ、隠すと為にならんぞ!」と家族にも厳しく言いつけられているわけです。

 

では、故郷に帰れない逃亡兵はどこに行くのか?

正史三国志呂乂(りょがい)伝には、逃げて行った兵士が都市に流れ込んでいる実態が記述されていました。

 

蜀郡には、多くの逃亡兵が紛れ込んでいた

洛陽城

 

蜀漢の首都、成都がある蜀郡は、後漢の末の統計で130万人の人口を擁する大都市でした。群雄割拠の騒乱で人口は落ちたと考えられますが、それでも10万人前後はいたでしょう。ひっきりなしに人が出入りする都市なので、人口の把握が難しく、逃亡兵は蜀郡に入り込んで別人の戸籍と名前を語り潜伏していたようです。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

特に、西暦234年に諸葛亮が五丈原で死去してからは、それが激しくなり逃亡兵同士でグループを組織したりしていた事が呂乂伝から読み取れます。これが蜀郡に入ってからのグループか、逃げる時に数名で固まって逃げていたのかは判別できませんが、後者ではないかなと思います。

 

■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■

古代中国の暮らし図鑑

 

呂乂が指導教育した結果

劉焉

 

この事態を受けて、呂乂が蜀郡太守になると兵士逃亡の防止策を取り、逃亡兵に対して教育指導をした事が書かれています。具体的にどんな事をしたのか?は不明ですが、効果はてきめんであり、数年の間に仲間を抜けて自分から蜀郡を出ていく兵士が、なんと1万人にも上ったそうです。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

この記述を信じるならば、人口100万程度の蜀において、動員できる兵士は最大でも10万程度だったそうですから、その10%が逃亡兵として蜀郡に潜伏していた事になります。

 

すべての逃亡兵が改心して出たわけではないでしょうが、それでも、1万人近い兵士が復帰したのだとすれば、蜀の軍事力にとり呂乂は多大な貢献をしたと言えますね。

【次のページに続きます】

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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