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この記事の目次
実はバンバン逃げていた蜀兵
蜀兵はいつ逃げるのか?これは動員されて任地に向かう途中が一番多いようです。諸葛亮は、北伐の兵を毎年のように全土から動員しましたが、割り当てた兵力がそのままやってくる事はほとんどありませんでした。
動員しても途中で逃亡してしまい、幾らか減ってしまっていたのです。
しかし、当時巴西太守だった呂乂の所だけは、兵士を送り出す時に懇切丁寧に説明し、取り締まりをしっかりしていたので、5000人の兵士を送ると全員が届いたそうです。逆に言うと、当時は兵士を送り込むのが乱暴でおざなりであり、不安になって逃げてしまうケースが多かった事が分かります。
関羽の下から逃げた兵士
兵士はどんな場合に逃げるのか?
一番大きいのは、軍が兵士を養えなくなった時でしょう。そして次は家族を敵に人質に取られた場合があげられるようです。
西暦219年、樊城を包囲していた関羽も、根拠地南郡を呂蒙に落とされ兵士たちの家族が人質にされ、無事に保護されたと分ると、兵士も官吏も戦意を喪失し雪崩をうつように逃げてしまい、関羽もそれを押しとどめる事が出来ませんでした。
戦えなくなった関羽は僅かな手勢で戦場を離脱しようとし、失敗して捕縛され処刑されます。結局、兵士と将軍の信頼関係が失われると、どんな名将であれ、兵士が逃げるのをどうしようもなくなるのです。
諸葛亮の兵士への配慮
兵士の士気に気を配った人物としては、諸葛亮が第一に上げられます。第1次北伐が街亭の失陥により失敗に終わると、ある者が改めて兵を徴発する事を勧めました。しかし、諸葛亮は
大軍が祁山・箕谷に在った時は、皆、賊より数が多かった。
それでも賊に破られたのは兵の少さではなく、私1人に原因があったのだ。
今は将兵の数を減らし、賞罰を明らかにし問題点を見定め将来の見通しを立てたい。
そうでないなら、兵士だけ多くても何の利益もない。
こう断言し、街亭失陥の責任者として馬謖を処刑した上で、自らの罪を天下に謝して降格処分とし、兵卒に休息を与えた後に北伐の意義を改めて唱え、士気を鼓舞して次の戦に備え、この間に選抜した兵士に鍛錬を施しています。一連の諸葛亮の手腕は鮮やかで蜀の人民は敗戦の事実を忘れたと書かれています。
それは、いささかオーバーだとしても、諸葛亮が敗戦という事実から目を背けず、どうして負けたのかを総括できるまで、なあなあで事を運ばないとしているのは注目に値します。
常に命の危機に晒される兵士に敗戦は重大事であり、どうして敗北して仲間が死んだのか?には強い関心があるわけで、そこを説明もなく置き去りにされると士気が下がり、逃亡続出という事態に繋がるわけです。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は逃亡した兵士がどこに消えていくのかという話題から、兵士を逃亡させない為にはどうすればいいのかまで、解説してみました。諸葛亮の重視した総括は、なされているように見えて、現代社会でもあまり為されていないか、不十分な事が多いと感じます。
最近、社内の士気が低いと感じたら、打ち上げたままで成功したか失敗したかアナウンスもしてないプロジェクトが無かったか?振り返ってみた方がいいかも知れません。
参考文献:正史三国志
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