呉の大将軍にして孫呉の王である孫権の補佐役。
数多くの人々に慕われた諸葛瑾ですが、弟である諸葛亮と比べるとちょっと地味?目立たない?
どうしてそんなことになってしまったのでしょうか?
果たしてこの兄弟にそれほど大きな違いがあるのでしょうか?
……というのが今回のテーマです。筆者の観点から、この二人の「違い」をまとめていこうと思います。
兄は呉へ、弟は劉備の下へ
三国志の武将たちの運命というのは正に「数奇」なものですが、この兄弟の運命もまた数奇なものであります。兄の諸葛瑾は洛陽の董卓の暴挙から逃げた先で人材を求める孫権と巡り合い、弟の諸葛亮は有名な三顧の礼にてまだ土地を持たない劉備に仕えることとなります。
そうして赤壁の戦いを経て呉と蜀の関係は悪化し、兄弟の主は敵同士となっていくのです。
迎え入れられてから
まずは諸葛亮について見ていきましょう。諸葛亮は劉備に仕えてから、長坂の戦い、赤壁の戦いで、主を支えていきます。
その後、劉備は蜀の地を手に入れるも呉との関係は良くならないまま、樊城で魏と呉に関羽が殺されてしまったことで、最早呉に対して蜀は不俱戴天の敵となってしまいました。
221年、劉備が漢帝となり、諸葛亮は丞相となります。
後に夷陵の戦いで劉備が呉に大敗北、223年にこの世を去ります。劉備は「我が子に才がなければ其方が王になるように」というも諸葛亮はそれを固辞、あくまで劉備の息子劉禅を王として、その手足として蜀のために働いていくのでした。
孫権との出会いから
では次に兄である諸葛瑾の方も簡単に見ていきましょう。孫権との出会いから諸葛瑾は孫権の良い相談役となり、政治に軍事に悩む孫権を良くサポートしました。
222年、江陵の戦いでは夏侯尚や曹真相手に一進一退の戦いを繰り広げ、後に撤退させることに成功します。この際に孫権から臨機応変に欠けると言われるも、諸葛瑾が兵を失わなかったことを評価し、左将軍に昇格しました。後に229年に孫権が呉皇帝となった際に、大将軍に昇格しました。
つまり最終的な官職としては、諸葛亮は丞相、諸葛瑾は大将軍です。
丞相と大将軍
諸葛瑾の大将軍というのは、陸遜が率いている荊州方面以外、対魏戦線で最高司令官になります。丞相というのは王の補佐をする国家公務員の最高役職です。
因みに魏では曹操自身が丞相と呼ばれており、蜀では諸葛亮一人だけが就任。呉では丞相の実権は上大将軍・大将軍・大司馬の軍職が継承していました。つまり兄弟の役職的な位置は、国は違ってもさほど違いはなかったと思います。
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