今回は三国志の前時代とも言える、漢王朝について。特にその中でも霊帝の子供たちの謎に迫っていきたいと思います。
霊帝の子供、子息と言うと献帝と少帝が有名ですが、実は……そんなちょっと「こわい」おはなしに迫ってみましょうか。
この記事の目次
霊帝の前の皇帝、桓帝
まず少し桓帝の子供について触れておきましょう。
桓帝は名前が分かっている限りの妻が七人ほど。そして少なくとも九人以上の高位の妃嬪がおり、何と妃嬪だけでも千人以上いたと言われています。しかしその子供たちで名前が伝わっているのは女子が三名、男子はいません。これだけの奥さんがいながら子供が三人、女子のみ……ここだけでも少し違和感を覚えるかと思いますが、次の霊帝にいきましょう。
霊帝の擁立
さて桓帝には男子がいませんでした。そのためお鉢が回ってきたのが霊帝こと劉宏です。彼は地方で暮らす貴族でしたが、実際には貴族と言っても貧困生活をおくっていたようです。同じ河間王家出身であったことから擁立され、齢13才にして皇帝となりました。
彼の最初の皇后は宋皇后と言いましたが、彼女は気が弱く寵愛されずにいたといいます。そして先の皇帝桓帝の弟、劉悝が宦官の謀略によって失脚させられ、三族皆殺しにあった際に、劉悝の妃が栄皇后と同族であったことから報復を恐れられ、無実の罪で誣告され、皇后を廃され自殺するという何ともドロドロした皇室の争いに巻き込まれています。
新しい皇后
そして霊帝の妃と言えば、なこの人が皇后となります。そう、何皇后ですね。何皇后は皇帝に寵愛され、異母兄である何進は最終的に大将軍となりました。しかし何進も何皇后も元は家畜の元は家畜の屠殺、そしてその肉を販売していたといいます。
つまり言ってしまうと二人ともごく普通の一般人。ですが何皇后が霊帝に見初められ皇后になったことで家臣は皇帝付きの武官に、黄巾の乱の際には大将軍となりました。ある意味一族揃って大出世と言えるでしょう。
【次のページに続きます】