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この記事の目次
平山城である小田原城は通行するもの全てを監視できていた
戦国時代までは戦のための防御が城の最大の目的であったため、山の上に建てる山城(やまじろ)が主流でしたが、「小田原城」はいわゆる平山城です。「小田原城」は関東への玄関口として、陸路だけでなく海路に行き来する人達を監視する必要があった為です。箱根山から伸びている丘陵の、海に飛び出している先端の丘に「小田原城」は建造されています。前の章では城を取り囲まれた時の心情について触れましたが、北条氏5代の繁栄が成されていた時代に「小田原城」から見た景色は、とても優越的な感じを受ける情景だったんだと思います。状況が変われば心情はまるっきり真逆になるわけで、陸路や海路を行き交う人々を見降ろしながら、北条家5代にわたる当主たちは何を思っていたのでしょうか。
平成の大改修を経て魅力度が増した小田原城
小田原城も、名古屋城や大阪城と同じように、昭和の時代になってから天守が復興されました。それから50年以上が経過し、耐震補強が必要だと診断されたことから、来館者の安全確保の観点で平成27年7月から平成28年4月にかけて、改修工事が行われました。
展示内容は、小田原の歴史が映像などを駆使しています。例えばシアターでは小田原城の魅力や北条氏の功績についてまとめた映像をみることができます。天守閣や小田原城全体の模型展示や、実際の甲冑や鯱(しゃちほこ)なども展示されており、見どころはとても多いです。その中でも一番の見どころは最上階である5階。当時の天守閣最上階の一部を、木材をふんだんに使った形で再現しています。特に将軍柱(城の最上階から下までを貫く大きな柱)を再現する際に用いられた木材の太さは45センチ(樹齢300年近い小田原産辻村山林の杉を使用)で、見ごたえがあります。また、その傍らには守護尊であった、摩利支天を主尊とする「天守七尊」が祀られています。この再現空間に用いられている木材は全て小田原産ということで、小田原住民の思いが詰まった、新しい名所になっています。
江戸のまちづくりの原点は小田原にあり、をブラタモリで知る
小田原城を語る上で欠かせないのは「総構え」。豊臣秀吉の小田原攻めに参陣した、前田利家や徳川家康が城下町を整備するうえで参考にしたと言われています。
例えば前田利家。金沢の城下町を整備する際、総構えを採用しています。総延長は約9kmで、くしくも「小田原城」の総構えと同じ規模でした。
徳川家康も江戸城下町を整備する際、総構えの考え方を取り入れました。江戸は金沢と違い、総構えという表現はあまり使われておらず、外郭(そとくるわ、外曲輪)と言われることが多いようです。ですが、基本原理はほとんど同じ。隅田川、江戸湾、台地や川などの自然地形を活かしつつ、不足分は堀を掘削しています。総長距離約15kmは小田原や金沢の約1.5倍の規模です。すごいですね。五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)から江戸に向かってきた旅人は、総構えの中にはいる時には城門(見附と呼ばれる城門が36箇所ありました)を通過する必要がありました。赤坂見附、虎ノ門、御成門などといった地名はその当時の名残でしょう。外郭の北から東にかけては中央線として利用されています。中央線四ツ谷駅から弁慶掘(ホテルニューオータニ近く)から赤坂見附へ、溜池山王から虎ノ門、御成門を経て、隅田川そして江戸湾に抜けていきます。虎ノ門駅には江戸城外堀跡の地下展示室がありますので、ご興味のある方はぜひ見学に行ってみてください。このように屈強の守りを備えていた江戸城でしたが、そのお手本となっているのは「小田原城」の総構えだったのです。
「廃城令」で消滅した小田原城を復活させた市民の思い
戦国時代には日本全国いたるところに天守(お城)があったわけですが、現在は12基しか残っていません。その大きな理由の一つが明治時代に入って行われた「廃城令」です。
「廃城令」
廃藩置県を機に天守(お城)は一旦陸軍の所有物となりました。しかしすべてが軍用地として必要だったわけではなく、維持費に莫大な費用がかかったため、要塞として必要な天守(お城)は残されることとなり、その他の城は財務省の管理となり、取り壊されてしまいました。お城跡に学校や県庁、警察署などが建っているのはそのためです。
小田原城は明治3年(1870年)に廃城令を待たずに廃城となり、天守をはじめほとんどの建造物は解体されてしまいました。当時の小田原藩の財政はとても厳しく、900両あまりで売却されています。さらに大正9年(1920年)には東海道線(熱海線)の線路により、本丸・二の丸と八幡山が分断されてしまいます。さらにその3年後には決定的な出来事が起きてしまいます。そうです、大正12年(1923年)に起こった関東大震災です。これによって城内に建てられた御用邸や残っていた石垣はほぼ倒壊してしまいました。
戦後になり、昭和25年(1950年)から復興が始まります。小田原城址公園として整備されたのち、昭和35年(1960年)に市制20周年記念事業として、総工費8000万円をかけて復興されました。「小田原城」は江戸時代にも何度か建て替えが行われていたようで、今の天守は宝永年間の再建のさいに用いられた設計図を参考にして復元されたそうです。復興にあたっては市民から多くの寄付が寄せられたのは、大阪城復興ととてもよく似ています。鉄筋コンクリート造で最上階には廻縁が設置されていますが、当時はなかったようです。しかし、この廻縁から見る風景は格別ですので、忠実に再現するだけが良いことではないような気がします。
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