ウィンストン・チャーチルは第二次世界大戦勃発までオワコン政治家だった




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チャーチル

 

ウィンストン・チャーチルと言えば、第2次世界大戦時の英国の首相であり、欧州を制圧しようとするヒトラーの野望に敢然と立ち向かい、ファシズムの恐怖から自由と民主主義を守った20世紀の英雄と呼ばれています。

 

 

近年もチャーチルを主役にした映画が公開されて人気を博するなど高い知名度を誇るチャーチルですが、もし、80年前のイギリス人がそれを知ったら「なんであいつが?」と首を傾げるでしょう。

 

紅茶一揆(イギリスの紅茶文化と戦車)

 

実は、第2次世界大戦が勃発するまで、チャーチルは英国では人気がなく、高齢でもあった事から「政治家生命は終わった」と囁かれている程だったからです。そんなチャーチルが世界大戦が勃発するや、一気に首相としてイギリス国民の支持を掴んだのは何故なんでしょうか?

 

今回は政治家を志す人は必見、オワコン政治家チャーチルの軌跡の逆転劇をご紹介しましょう。




チャーチルの経歴

 

ウィンストン・チャーチルは、1874年にイギリスオックスフォードシャーブレナム宮殿で産まれました。

 

祖父は第七代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサーチャーチルという名門貴族であり、父は、その3男でランドルフ・チャーチル卿と言い英国保守党に所属する庶民院の政治家でした。

 

チャーチルは、そのキャリアをサンドハースト王立陸軍士官学校、軽騎兵隊からスタートさせ、イギリス領インドでパシュトゥーン人反乱鎮圧戦に従軍。その後、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍してから除隊、1900年のイギリス総選挙で保守党候補として立候補し25歳の若さで初当選します。

 

以後は、保守党から自由党に鞍替えし、また保守党に戻って活動し落選も何度も経験するなどキャリアを積み、通商大臣を最初に、軍需大臣、航空大臣、陸軍大臣、植民地大臣を歴任。政治家としてのキャリアを積み重ね、多くの失敗もありながらキレモノであるとの評判でした。

 

しかし、長い政治家生活の中でチャーチルは3つの失敗をやらかし、それが災いして第二次大戦前に政治家生命が終ろうとしていたのです。




3つの失敗

 

チャーチルにはアキレス腱とも言うべき3つの失敗がありました。

 

第1の失敗は、第1次世界大戦中、海軍大臣だったチャーチルがドイツ側に立って宣戦布告したオスマントルコの首都、イスタンブールを陥落させようと、489000人ものイギリス兵を派遣したガリポリの戦いで大敗した事です。

 

この戦いで、英国は死傷者160,790人、戦病死3,778人以上、撤退による病死90,000人と膨大な被害を出してしまい、チャーチルは非難囂々(ひなんごうごう)で海軍大臣をクビにされます。

 

ガリポリの悪評は致命的で、平時は兎も角、戦時には、チャーチルに軍を任せてはならないというのが歴代内閣の暗黙の了解になっていました。

 

第2の失敗はストライキのような労働運動を全て社会主義者の手先と決めつけ、激しく弾圧してしまった事です。チャーチルは反共主義者であり、ストライキの背後にソビエト共産主義の影を疑い、激しい弾圧を加えたのです。

 

ところが、第1次大戦後の英国は不景気で、労働者の支持を受けた労働党は勢力を伸ばし、1924年には労働党党首、ラムゼイ・マクドナルドが労働党党首として初めて首相になりました。

 

こうして一大勢力になった労働党は、労働者を弾圧してきたチャーチルを嫌悪し、チャーチルが入閣してくるのを嫌うようになります。この為、圧倒的多数の議席を獲得しない限り、保守党も自由党もチャーチルを閣僚として起用する事にはリスクがあったのです。

 

3つ目には、チャーチルがインドに自治を与える事に強硬に反対した事でした。

 

イギリスは第1次世界大戦でインドからも協力を引き出す為に、大戦後のインド自治を認める方針を口にしていましたが、その約束は履行(りこう)されないままだったので、インドでは独立運動が過熱し、ガンジーを指導者とする非暴力不服従運動が起きます。

 

それに対し、英国は暴力で運動を抑え込もうとして世界のメディアがこれを報道、横暴な英国と被害者のインド人という図式が出来上がり、英国でもインドに一定の自治を与えるべきという意見が主流になりました。

 

ところがチャーチルは自治を許せば、そのまま独立まで突き進み、英国の繁栄の源であるインドを失うとして、自治容認派の政治家を辛辣に批判したのです。

 

チャーチルはインド防衛連盟という組織まで造ってロビー活動を開始し、一時は保守党内に勢力を持ちますが、息子のランドルフはインド自治反対を掲げて補欠選挙で政界進出を図るも落選。

 

世論は完全にインド自治容認に傾き、チャーチルは時代の流れを理解できない石頭のロートル政治家と見做されオワコン化していきました。これが1935年の6月の事で第二次世界大戦は4年後に迫っていたのです。

 

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ドイツ同情派が多い英国で1人強硬論を唱える

 

1932年夏ドイツでは国会議員選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が第一党となり1933年1月にはアドルフ・ヒトラーが首相に就任。

 

独裁体制を整えると、1935年3月にはヴェルサイユ条約のドイツ軍備制限条項の破棄(はき)を宣告して再軍備を開始します。しかし、このヒトラーの怪しい動きに対し、英国の保守党の政治家は無警戒であり、むしろ同情的でした。

 

この頃には、敗戦国のドイツに過大な賠償金(ばいしょうきん)を押し付けたヴェルサイユ条約に対する戦勝国の反省が生まれていて、ヒトラーでなくても、ヴェルサイユ条約を撤廃したいと思うのは独立国としては当然だろうと考えていたのです。

 

もう1つの理由は、当時のドイツでは政権を取る可能性があるのは、ナチスでなければドイツ共産党でした。英国としては、ドイツ共産党に政権を取らせてソビエトの脅威を蒙るよりは、ナチスにある程度の国力回復を許し、ソビエトに対する緩衝材(かんしょうざい)として使おうと考える融和派(ゆうわは)が多かったのです。

 

これは、保守党の党首ボールドウィンや後任のネヴィル・チェンバレンも同様でした。しかし、チャーチルは一貫してヒトラーとは融和出来ないと主張し、保守党の主流とも、当時の英国世論にも決して同調しませんでした。

 

「ヒトラーは狂犬だ!餌を与えて手(なづ)けるなんて出来ない。ドイツの再軍備を許さず、英国は軍備を強化すべきだ!手遅れになる前に!」

 

ところが、不人気な上に、世論に逆らうチャーチルに英国民は冷淡でした。それでもチャーチルは怯まず、ヒトラーが欧州の脅威になる事を説き続けたのです。

 

チェンバレンの融和策に牙を剥くヒトラー

 

1936年3月ヒトラーはヴェルサイユ条約で非武装地帯と決められていたラインラントにドイツ軍を進駐させます。フランス政府は、対独参戦すべきかを決心出来ず、英国政府にどうすべきかと打診しました。英国はボールドウィン首相が融和策に基づき放置すべしと主張、英国世論もドイツの領土にドイツが入っただけと融和的な空気でした。

 

その中で1人チャーチルだけが激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンに(はか)ることなくドイツに宣戦布告しただろう」とフランスの弱腰を嘆きます。

 

1937年5月ボールドウィン首相は政界を引退し、代わってネヴィル・チェンバレンが保守党党首・首相に就任しました。その頃、チャーチルは駐英ドイツ大使、リッペンドロップと会見、ドイツが東ヨーロッパに対する領有権を主張している事を知り、ヒトラーへの警戒心を強めます。1938年3月、ドイツ民族国家のオーストリアがドイツに平和的に併合されました。

 

それでも、対独融和派のチェンバレンは無視、抗議声明1つ出しません。一方でチャーチルはヒトラーのオーストリア併合を批判する演説をしています。

 

チェンバレンの弱腰にヒトラーは攻勢を強め、当時はチェコスロバキア領だった旧オーストリア=ハンガリー帝国領スデーテン地方のドイツへの割譲(かつじょう)を要求しました。さすがに心配になったチェンバレンは、1938年の9月15日に、ドイツ・バイエルン州のベルヒテスガーデンのヒトラー別荘を訪問して説得を試みます。

 

しかし、ヒトラーは強い調子で、ズデーテンのドイツ人がいかにチェコスロバキア政府に酷い弾圧を受けているかを語り、逆にチェンバレンを説得してしまいました。チェンバレンはフランスを説得し、9月29日のミュンヘン会談で、正式にドイツのズデーテン地方領有を認めたのです。

 

これでヒトラーも収まるだろうと考えたチェンバレンですが、ミュンヘン会談も空しく1939年3月にはチェコスロバキアの内紛でチェコとスロバキアが分離したチャンスを捕えヒトラーはチェコを保護領とします。

 

ここに至ってさすがに英国世論もチェンバレンの融和策はヒトラーをつけあがらせただけではないか?という失望が広がりました。労働党は英国とフランスとソ連が同盟してドイツに対抗せよと主張し、ソ連が大嫌いな反共主義者のチャーチルも勢力均衡論から労働党に賛成します。

 

しかし、チェンバレンも反共主義者であり、労働党の英、仏、ソ同盟に反対でした。それに当時のソ連赤軍はスターリンの大粛清(だいしゅくせい)により高級将校のほとんどが抹殺(まっさつ)されていて、同盟を結んだところでまともな戦力になるまいと考えていたようです。

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