こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
武鑑と大名行列と井伊直弼
さて、江戸の大名行列ウォッチャーが武鑑を必要とするのが、大名行列を見物する時です。江戸に住む諸藩の大名は、江戸城に登城する日がちゃんと決まっていました。
第1が正月、そして、月次御礼と呼ばれた毎月1日と15日の定期の登城日。さらに徳川家康が関東に入った記念日である八朔(8月1日)。そして、人日(1月7日)上巳(3月3日)端午(5月5日)七夕(7月7日)重陽(9月9日)の五節句と呼ばれる登城日です。
特に、正月や八朔、五節句には、諸大名が総出で桜田門を大名行列を組んで登城するので、江戸の大名行列ウォッチャーは、これらの日を逃さずに武鑑を片手に見物していました。
見られている大名の方も、町民に品評されるわけですから、知らん顔をしつつも意識しまくりで見栄を張り、少しでも行列が美しくなるように気合を入れていたそうです。
そんなわけで、登城日に桜田門の周辺に武鑑片手に庶民が群がるのは風物詩で、誰も気にしなくなりますが、そこに目をつけたのが井伊大老暗殺を狙う水戸浪士達でした。
万延元年(1860年)の3月3日、水戸浪士は武鑑を購入して大名行列見物人に紛れこみ、「へーっ、あれが伊達様の大名行列かー」などと田舎武士のような素振りをしつつ、井伊大老の籠が桜田門の前に来るのを待っていたのです。
日本史ライターkawausoの独り言
今回は江戸時代のプロ野球名鑑とも言える、武鑑について解説してみました。このように武鑑が流行した背景には、当時の武家が大名、旗本を問わず排他的で、自分の情報を外に開示する事を嫌がっていた事があります。特に外様大名は、常に幕府による改易を警戒していたので、自藩についての情報は大なり小なり関係なく漏らす事を嫌っていました。
この大名の秘密主義が、大名の事を知りたいという知的欲求を刺激し、武鑑のような大名・旗本名鑑が誕生する事になったのです。
参考:Wikipedia
関連記事:藩札とは?江戸時代に発行されたローカル紙幣の不思議
関連記事:篤姫の猫好きを例に江戸時代のペットの役割を考えてみよう!