西暦710年の設置から784年に長岡京に遷都するまで、日本の首都だった奈良の平城京。しかし、長岡京への遷都後、奈良は急速に没落し、以後、時代が進んでも日本の中心の地位を取り返す事が出来ないでいます。
それは、どうしてなのでしょうか?
今回は、思い当たり、ゾッとしてしまう奈良没落の理由を解説します。
この記事の目次
どうして奈良は首都になったのか?
現在の地図を見ていると、どうして奈良に平城京が置かれたのか不思議です。ですが、当時の地形を考えると奈良に都が置かれた必然性が分かってきます。
奈良時代、今の大阪平野は湿地帯であり、大阪湾は上町台地を回り込んで内陸の奥まで入り込んでいます。また、今の大和川は堺市を流れていますが、奈良時代には奈良盆地を出ると向きを北に変え大阪湾に流れ込んでいました。
当時の大阪湾は波が荒く、船の停泊には適さず、逆に奈良には瀬戸内海から大阪湾に入り上町台地を回り込んで大和川を遡り、生駒山、金剛山の麓まで到達できました。こうして、生駒山麓の柏原市まで直接船で行き、柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の背を越えると、もうすぐそこは奈良盆地です。
さらに奈良盆地には大きな湿地湖が広がり、その湿地湖を利用すれば、奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行く事ができました。このように穏やかな内港だった奈良は、ユーラシア大陸との連絡が容易であり、奈良が都になるのは合理的だったのです。
資源に乏しく環境悪化で捨てられた奈良
ところが地形的な優位を得ている奈良は、別の致命的な弱点を抱えていました。それは奈良盆地がとても小さく、平城京の増え続ける人口に対し、水と森林エネルギーを供給する事が難しくなった事です。
平城京の人口は奈良時代、10万から20万と推定されていますが、人口1人あたりが1年間に必要とする木材は、立木で10本にもなり、人口全体では毎年100万から250万本の立木が必要になります。
奈良盆地だけで、これだけの木材を供給するのは難しく、周囲の山はたちまち禿山になり、それと同時に保水力を失った山では土砂崩れが頻発するようになりました。また、山の土砂が絶えず湿地湖に流れ込む事で、湿地湖は土砂で埋まり奈良盆地の水はけは悪化、生活排水は盆地内で淀んで不衛生な環境が出現します。
土砂が流れ込んだ湿地湖は、少しの雨でも氾濫し住居や田畑が浸水して被害をもたらし、農業生産力も著しく低下しました。桓武天皇が平城京を捨て、大和川よりも何倍も大きく水と森が豊かな淀川流域の京都に遷都したのは、この環境破壊も原因であるようです。
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