呉と孫権にとっては消したい事件・二宮の変って何?

2020年10月25日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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李術にブチ切れる孫権

 

今回は孫権(そんけん)にとって、そして呉の国としてもとんでもない内紛、二宮の変(にきゅうのへん)についてご説明しましょう。この二宮の変、三国志演義ではほとんど出てきていないと言っても良く、知らない人はほぼ知らない事件です。

 

普に降参する孫皓

 

しかしその影響たるや、呉のその後まで響いてくる発端と言っても過言ではありません。その二宮の変について、できるだけ嚙み砕いてご説明しますね。

 

発端・孫登

孫登

 

孫権(そんけん)には皇太子として期待をかけていた息子、孫登(そんとう
)
がいました。

 

孫権から皇太子に任命される孫登

 

孫登は若くして優秀で、将来良い後継者になるとも言われていた人物です。しかしこの孫登、241年に早逝してしまいます。孫登33歳、あまりにも早すぎる死でした。

 

孫和

 

孫登はこの際に、孫権が寵愛していた王夫人の子である弟、孫和(そんか
)
を後継者にするように遺言し、孫権もその通りにしました。静かなる波乱の幕開けです。

 

派閥争い始まる(そりゃそうだ)

孫覇

 

さて皇太子となると時代の皇帝となる人物、扱いもそれはそれは変わってくるはずです。しかしこの際に厄介なことが起こります。

 

孫権に気に入られる孫覇

 

孫権は皇太子である孫和と、その弟である孫覇(そんは
)
を同じ待遇で接するようになったのです。当然と言いますが孫和、孫覇は争い始め、両方の派閥が生まれて後継者争いが始まり始まり。

 

どうして急に孫覇を?

そんろは 孫魯班

 

ここで気になる、どうして孫権は孫和ではなく孫覇を可愛がり始めたのか。そこには孫権の娘である孫魯班(そんろはん
)
が出てきます。孫魯斑は孫権と歩夫人(歩錬師)の娘で、歩夫人は孫権の寵愛深くも身分が低く、皇后になれないままこの世を去りました。

 

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

しかし孫和が皇太子となり、その母であった王夫人が皇后になるべきではないかと話が出てきます。そしてこの王夫人と孫魯斑は関係が悪かったこともあり、そして孫権自身が王夫人を皇后にはしなかったため、これ幸いと孫魯斑は王夫人の悪口を孫権に吹き込み、王夫人は冷遇されるようになりました。

 

嫉妬する孫魯班

 

これも影響して、孫権は孫和を皇太子としながら遠ざけるような振る舞いをするようになっていくのです。

二宮の変

文学に秀でた孫和

 

そして孫和派、孫覇派の争い、二宮の変が始まります。因みに孫魯班、その夫の全ソウは当然ですが孫覇です。

 

陸遜

 

そして陸遜(りくそん)諸葛恪(しょかつ かく
)
といった人物らは孫和派だったと言います。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

このため陸遜らが孫覇派に讒言されるなどがあり、この件で憤死するなど被害は甚大、それによって一時的に権力を握った全ソウらも病死したりするなど、もはやいつ終わるのかも分からない状態になっていましたが、権力争いに嫌気がさしたのか孫権はこの頃、孫和でも孫覇でもなく末っ子の孫亮をかわいがるようになっていました。

 

孫権、動く(やっと)

後継者争いで悩む孫権

 

250年、孫権は孫峻(そんしゅん
)
という相談役を得てやっと後継者争いに動きます。この際に孫和は皇太子を廃され、孫覇は自害を命じられ、孫覇派の者たちは謀殺、そして孫亮が皇太子となりました。

 

後継者争いを放置する孫権

 

……もう嫌な予感しかしませんが、この際に処罰に反対した者たちが何人も誅殺されるなどして、呉の混乱は決して収まることはなく、二宮の変が終わってもなお糸を引くような結果となってしまうのです。。

 

孫静のひ孫・孫峻

孫静

 

因みにこの際に孫権から信頼を得て後続を託される孫峻は、孫権の叔父になる孫静(そんせい
)
のひ孫です。孫静は孫堅(そんけん)の弟ですが、苛烈な孫家の中では珍しく穏やかであり、良く孫策、孫権を支えてくれた存在でした。

 

孫策に手紙でアドバイスをする孫静

 

また孫静は穏やかな性格だけでなく慎み深く、権力欲もない清廉な人物でした。繰り返します、これは孫峻(そんしゅん
)
の曾祖父の孫静の話です。

 

諸葛恪と孫峻

 

そんな曾祖父の血筋がどこへ行ったのかは知りませんが、孫峻は後事を託された後、自分が推挙した諸葛恪と権力争いで揉め、諸葛恪を惨殺、それからは孫亮が幼帝であることを良いことに専横に次ぐ専横を重ね、呉は二宮の変による内乱で弱っている上に専横によってどんどんとその国としての身体を蝕まれるようになったのでした。

 

裴松之先生、一言ドウゾ

袁紹、袁尚、袁譚

 

さて二宮の変、言ってしまうと孫権が後継者争いでしっかりしていないから起きた出来事、と言っても良いでしょう。そして三国志で後継者争いと言えば良く名前が出てくるのが袁紹(えんしょう)劉表(りゅうひょう
)
ですね。

 

裴松之(歴史作家)

 

この件について裴松之(はいしょうし
)
先生も袁紹、劉表を引き合いにこのように述べています。

 

袁尚と対立する袁譚

 

「袁紹も劉表も後継者争いで国を滅ぼした。しかし彼らは袁尚、劉ソウができの良い息子だという判断のもと、後継者にしようとしていた。だけど孫権はそんなの関係なく、一回は孫和を後継者にしたのに孫覇を後継者のように扱って国を混乱させ、自分の一族に災厄をもたらした。二人と比較しても孫権の後継者争いの件はひどすぎる」

 

孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

と、言われても仕方がないとはいえ、スパイシーでホットな総評です。ここから孫亮(そんりょう)孫休(そんきゅう
)
、そして……と呉の皇帝たちが続いていく(終わりの始まり)と思うと、仕方のない批判なのですけれどね。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

前述したように、三国志演義だとこの二宮の変、ほとんど出てきません。このため孫権のやらかし案件が知れ渡らないままです。とは言え、この二宮の変、ドロドロカオスな後継者争いでしかないのですが、呉のその後に大きく繋がる事件の発端でもあります。呉王様のトップシークレット(?)でもありますが、この機会に是非、二宮の変がどういうものだったのか覚えておいて下さいませ。

 

参考文献:呉書呉主伝 三嗣主伝 妃嬪伝

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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