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奈良を没落させた恐るべき淀川
平城京から平安京までは直線距離で40キロ程度しかありません。しかし、この僅か40キロの距離が奈良を没落させる致命的な距離となります。それは、シルクロードからやってくる外国船が大和川を通過しなくなった事でした。
平安京遷都後、瀬戸内海から大阪湾に入った船は淀川をさかのぼり、枚方、山崎を通過し淀川三川が合流する巨椋池に入りました。この対岸に京都盆地は広がっているからです。ところが、この淀川水系は大和川と違い京都がターミナルではありません。
京都の上流には琵琶湖があり、その為、淀川からの交通は京都から琵琶湖に続き、近江の大津、そして大津から東海道や中山道という陸路が伸びていきました。淀川から京都を通じて伸びるこれら街道は、日本史の中で相互に混ざり合い、新しい歴史の牽引車になっていくのです。そう奈良を除いて…
奈良は平安京から、わずか40キロしか離れていないにもかかわらず、淀川水系に繋がらない袋小路であったばかりに、日本の交流軸から外れ1000年の眠りについてしまうのです。そして奈良時代、最大20万人前後と推定された奈良の人口は江戸時代には、40万人から30万後半で推移し、明治22年には50万人に到達しました。
今でも奈良県のインフラが遅れている理由
奈良の人口を再び増加させた切っ掛けは、(明治25年1892年)に湊町(現・JR難波駅)- 奈良間の鉄道開業でした。それまで、淀川水系で隔絶していた大阪と奈良が鉄道という新しい交流軸で結ばれたのです。
さらに明治29年(1896年)には奈良鉄道が木津 - 奈良間を開業し、京都と奈良が結ばれたことで、神社仏閣の多い奈良県が観光地として栄えていくことになります。
大正3年(1914年)4月には、大阪電気軌道が、大阪の上本町駅- 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)開業。商業の中心地である大阪と奈良の交通アクセスが良くなります。しかし、1000年もの間、寝ていた奈良はインフラ整備が長期間手つかずで他府県に大きな遅れを取っていました。
それがいきなり鉄道の開通で叩き起こされたので、経済発展とインフラ整備の両輪がアンバランスになり、現在も奈良は、大和川の水質悪化、森林伐採、水はけの悪い奈良盆地の洪水等の水害に悩まされています。京都に次ぐ観光地にも関わらず、奈良県は、インフラ整備に予算を取られ、旅館・ホテル数が46位とワーストに近いです。
ようやく目を覚ました奈良ですが、1000年の眠りの後遺症は今でも続いているという事でしょうか?
日本史ライターkawausoの独り言
さびれてしまう都市というのは、概ね、この交流軸から外れている事が影響しています。どうも、ウチの市町村は発展しないなーと思っている方は、住んでいる市町村が都道府県の交流軸に沿っているか見てみるのも面白いでしょう。そして、交流軸から外れているなら、どうすれば交流軸に乗れるかを考えてみるのも面白いかも知れませんよ。
参考文献:日本史の謎は地形で解ける PHP新書
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