特攻と言えば、大東亜戦争末期の神風特攻隊が有名です。パイロットの生還を期さず、人間爆弾と化して敵艦に体当たりするこの戦法は統率の外道と呼ばれ、当時でも否定的な見解を与えられました。ところで、この特攻のルーツが幕末の「捨て足軽」という戦法かも知れないってご存知ですか?
今回は、特攻のルーツ、捨て足軽の発想がどうして生まれたのかを考えます。
この記事の目次
開明派の福岡藩と佐賀藩で生み出された自爆攻撃
捨て足軽、それは、足軽の体に80ポンドの火薬を小樽に入れて括りつけ、西洋の軍艦に乗り込んで爆発するという文字通りの自爆攻撃です。この捨て足軽を考案したのは、意外にも幕末の佐賀藩と福岡藩でした。一見すると、蘭癖大名の下で蘭学を盛んに導入したように見える2つの藩で、どうしてこのような狂気とも取れる自爆攻撃が編み出されたのでしょうか?
佐賀藩を戦慄させたフェートン号事件
佐賀藩は江戸初期から福岡藩と共に、長崎湾を外国船から防衛する役割を背負っていました。つまり、日本の国防を幕府に命じられていたわけです。佐賀藩と福岡藩は、その任務の重要さ故に、通常1年間の参勤交代を特別に1/3以下に縮小され百日大名と呼ばれていました。しかし、泰平の世に慣れ切っていた佐賀藩では経費節約の為、幕府に内緒で長崎に配置していた警備要員を勝手に削減、その隙を突いて起きたのがフェートン号事件でした。
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ナポレオン戦争の余波フェートン号事件
フェートン号事件の切っ掛けはフランス革命にさかのぼります。西暦1793年フランス共和国軍はオランダ王国を征服してバタヴィア共和国を樹立。オランダの植民地は全てフランスの影響下に入ります。
その後、フランスではナポレオン1世が台頭、オランダ国王ウィレム5世はイギリスに亡命し、オランダの持つ植民地の接収をイギリス政府に依頼します。必然的にイギリスはナポレオン戦争でフランスに敵対する事になり、出島のオランダ商館は、イギリスの東アジア貿易独占の為、排除すべき敵になりました。
文化5年8月15日(1808年10月4日)オランダ船拿捕を目的とし、イギリス海軍のフリゲート艦フェートンは、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り長崎へ入港。
これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとすると、武装ボートによって商館員2名が拉致、船に連行されました。
それと同時にフェートン号はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を開始する暴挙に出ます。
フェートン号に何も出来なかった長崎奉行所
長崎奉行所はフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求しますが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけでした。
長崎奉行、松平康英は、福岡藩と佐賀藩にイギリス船の襲撃に備えるよう命じ、同時にフェートン号の抑留と焼き討ちを命じますが、1000人いるハズの佐賀藩兵は1/10の100人しかなく、松平は止む無く九州各藩に救援を要請します。
結局、全ては後手後手になり、長崎奉行所は水と食料をフェートン号に供給、オランダ商館員2名は解放されますが、フェートン号は九州大名の攻撃を受ける前に悠々と長崎を出ていきました。
松平康英は一連の失態の責任を取り切腹、佐賀藩主鍋島斉直には、百日の閉門が命じられます。この事で完全に面目を潰した佐賀藩は、二度と外国に恥をかかされる訳にはいかなくなるのです。このフェートン号事件こそが、佐賀藩が幕末最大の近代軍隊を保有する契機になりました。
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