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この記事の目次
西洋帆船の威力に自爆攻撃を決意
天保元年(1830年)フェートン号事件とシーボルト台風の大打撃で隠居せざるを得なかった鍋島斉直に代わり、佐賀藩主になったのは弱冠15歳の鍋島斉正(直正)でした。天災と斉直の浪費により破綻した佐賀藩の財政、そしていつ襲来するか分からない西洋軍艦の脅威に15歳の斉正は立ち向かわねばならなくなります。
そんなわけで鍋島斉正は、国防の為、洋式帆船を見聞したいと幕府に願い出、当時の300諸藩の大名では恐らく唯一、三本マストの西洋帆船に乗船する事を許され西洋の最新鋭の装備に戦慄する事になりました。
当時の軍艦は、西洋科学文明の粋ですから、これを佐賀藩の若き藩主が見た歴史的なインパクトは計り知れません。以後、佐賀藩は火打石式銃を輸入し、オランダ式戦陣を研究し、反射炉まで建設するまでになりますが、それは今日決めて、明日実行できるようなものではありません。
そこで佐賀藩が悲壮な決意で考えだしたのが、80ポンドの火薬を背負い自爆する捨て足軽の発想だったのです。万が一、近代化が間に合わず、西洋帆船の攻撃を受けた場合。藩と日本の国防を担う為、命を的にして西洋の侵略を退けようと決意したのでした。
これは誤解を恐れずに言うならば、すでに空母を失い制空権も奪われた日本が、圧倒的な物量で迫るアメリカ軍を前に、万やむなき最期の手段として特攻を選んだのと通底すると言えると思います。
より具体的な福岡藩の捨て足軽
同じく長崎湾の防備を任された福岡藩には、より具体的な捨て足軽の様子が記録されています。
明海大学の岩下哲典教授が「異国船 一件 渡辺」という史料などを元に詳しく研究された著作「18世紀~19世紀の初頭における露・英の接近と近世日本の変容」及び、笠谷和比古著「十八世紀日本の文化状況と国際環境」のような史料によれば、
「黒田公の防備の手当は、万一、オランダ船の本船に乗り込んだ時、捨て足軽と言って80人ばかりに、めいめい焔硝を小樽に詰めて肌身に着けておいて、本船に乗り込んで火をつける用意のよし、鍋島公も同様である。みな、一番手の足軽は火をつけられる覚悟によし」と書かれているそうです。
シーボルト曰く「これぞ日本人である」
そして、自爆攻撃の発想は何も、佐賀藩と福岡藩だけではありませんでした。
フェートン号事件の時、長崎の町年寄、高島茂紀は衣装の下に八十ポンドの火薬を隠し持って人質交渉を行い、イギリスが人質を返さないなら、船内で船長もろとも自爆し、船を沈めるつもりでいたそうです。
この話はシーボルトが日記に書いていて、シーボルトは「これが日本人である」と記しています。この凄まじい愛国心を持った長崎の町年寄、高島茂紀の子が日本の西洋砲術の祖、高島秀帆だったりします。この父ありてこの子ありという感じですね。
日本史ライターkawausoの独り言
鍋島直正にしても、福岡藩にしても、出来る事なら捨て足軽など使いたくはなかったでしょう。しかし、現実問題として西洋の軍艦は、日本の和船と比較しても話にならない程に強大であり、もし攻め込まれて国辱を蒙る事態になれば、命を的にして食い止めるしかないと決意していたと考えられます。幸いにして幕末に捨て足軽を使う事はなく、日本は近代化を果たしたのですが、使わないままというわけには結果的にはいきませんでした。
参考文献:磯田直史 天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災
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