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この記事の目次
豊臣秀吉は京都に常駐したのか?
さて、織田信長の後継者となった豊臣秀吉ですが、彼は京都に常駐したのでしょうか?
天正11年(1583年)秀吉は、信長が城を建設しようと目をつけていた、かつて石山本願寺の居城があった大坂の上町台地の先端に大坂城を築き始めます。ここは、低地が多い大坂では珍しい高地であり、淀川の水流に近く京都とも水路が通じ、貿易港の堺とも、瀬戸内海からの船が入る港からも近い場所でした。
ちょうど、織田信長が安土に目を付けたように、秀吉も経済の大動脈がある大坂に豪華絢爛な大坂城を築いて、天下人アピールをしたのです。ここまでは、秀吉も信長のスタイルを踏襲している感じでした。
ところが、天正15年(1587年)9月に秀吉は豪華絢爛な御殿、聚楽第を上京区に完成させ4年間執務を執ります。
そして、天正19年(1591年)には、関白の役職と豊臣氏長者を甥の豊臣秀次に譲り、聚楽第も秀次の居城として与えてしまうのです。
その後、秀吉は隠居地のつもりで、当時の京都の郊外である伏見に伏見城を建設しました。こうして見ると秀吉は、信長と違い郊外とはいえ京都に常駐したかのように見えます。どうして心変わりしたのでしょうか?
その理由としては、秀吉が天正13年(1585年)朝廷の混乱を利用し武家として初めて関白太政大臣に上り、武家としても公家としても頂点を極めた事が影響しているのかも知れません。元々は、信長のように京都から距離を置いてコントロールするつもりが、自身が公家になり、そうもいかなくなったんでしょうね。
秀頼が生まれ、大坂城に比重が傾く
しかし、秀次に全てを譲って余生を送るつもりの秀吉に奇跡が起きます。文禄2年(1593年)諦めていた嫡男の豊臣秀頼が誕生したのです。
隠居するつもりだった秀吉は、こうして180度方針転換し、文禄3年(1594年)10月頃より宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き城の外濠として防御力を固め、伏見城下には、大坂城に通ずる港湾を整備しました。
さらに、巨椋池に小倉堤を築いて、その上に街道を通し新たな大和街道とするなど大規模な土木工事を行います。これらの行動は、幼い秀頼の為に、まだ死ぬわけにはいかないと奮起した秀吉が、伏見城を京都と大坂を結ぶ軍事と経済の要衝として、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼を結ぶ二元政治を意図したものだと考えられています。
ところが、秀頼が生まれた事で関白、豊臣秀次の立場は日に日に悪くなり、文禄4年(1595年)7月、秀次は高野山に追われ切腹。聚楽第も過去の遺物として徹底的に破壊され、たった8年で地上から消えてしまいました。
ただこれにより、秀吉の目線は再び大坂を向く事になり秀吉自身は伏見に住みながらも、豊臣政権の比重は京都から秀頼の大坂城へと傾いていくのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
どうして、織田信長は京都に常駐しなかったかについて書いてみました。恐らく、信長は京都を大事にしていなかったわけではなく、安土という京都に近く、街道と水運を抑えられる土地の方が、本拠地としては有利だと考えたのだと思います。
仮に京都に異変があっても、沖島惣中の快速船で半日では上洛できますから、地図で見る程の物理的な距離を信長は感じていなかったのでしょうね。
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