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自衛集団両側町
その自衛意識は町並みの変化としても出現しました。特に、町民の町だった下京では平安時代まで碁盤目で区画整理されていた街並みが、室町時代に入ると道に面して建物が立ち並ぶようになります。
こうして道を挟んで向かい合う家々が一つの町内として共同で自治を行うシステムを「両側町」と言います。実際には、そればかりでなく、十字路の四辻には門が設けられ、そこには自身番が立って、通過する怪しい人間を検査するようになりました。
この四辻の門は、放火や事件が起こると直ちに閉じられて、犯人が逃亡できないように工夫されたセキュリティーシステムだったのです。両側町の人々は、こうして一致団結して防犯に努めるだけでなく、京都に度々侵入してきた戦国大名の軍勢さえ、団結する事で追い払う事がありました。応仁の乱は、不幸以外の何物でもありませんでしたが、その副産物として京都の人々の団結を産み出したのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
上京と下京の人々の団結と独立心の旺盛さは、皮肉にも永禄11年からの織田信長による京都支配ではマイナスに働きました。特に上京では、富裕層が信長の支配に明らかに反抗的であり、後に信長と矛を交えた足利義昭の命令で、信長の屋敷の壁を破壊するなどした為、信長の怒りを買います。
上京では、銀を供出して、町の安全を担保しようとしますが及ばず、元亀4年(1573年)籠城した足利義昭を威嚇する名目で、1万人の織田軍により上京は焼き討ちされました。この時に焼けた民家は6000から7000軒に上ったそうです。
しかし、この焼き討ちの時ですら上京の人々は町同士で団結・協力して避難し、織田信長が上京を再興した時には、従来の町名がほとんど復活しています。良い面でも悪い面でも戦国の京都人の特徴が出たと言えるかも知れません。
参考文献:信長が見た戦国京都 城塞に囲まれた異貌の都
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