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リアルバッドシティ!治安が最悪な戦国の京都を紹介

2020年11月27日


はじめての三国志_ページネーション

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治安が最悪な京都(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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自衛集団両側町

藤原京(地図)

 

その自衛意識は町並みの変化としても出現しました。特に、町民の町だった下京では平安時代まで碁盤目(ごばんめ)で区画整理されていた街並みが、室町時代に入ると道に面して建物が立ち並ぶようになります。

こうして道を挟んで向かい合う家々が一つの町内として共同で自治を行うシステムを「両側町(りょうがわちょう)」と言います。実際には、そればかりでなく、十字路の四辻には門が設けられ、そこには自身番(じしんばん)が立って、通過する怪しい人間を検査するようになりました。

 

関所

 

この四辻の門は、放火や事件が起こると直ちに閉じられて、犯人が逃亡できないように工夫されたセキュリティーシステムだったのです。両側町の人々は、こうして一致団結して防犯に努めるだけでなく、京都に度々侵入してきた戦国大名の軍勢さえ、団結する事で追い払う事がありました。応仁の乱は、不幸以外の何物でもありませんでしたが、その副産物として京都の人々の団結を産み出したのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

上京と下京の人々の団結と独立心の旺盛さは、皮肉にも永禄11年からの織田信長による京都支配ではマイナスに働きました。特に上京では、富裕層が信長の支配に明らかに反抗的であり、後に信長と矛を交えた足利義昭の命令で、信長の屋敷の壁を破壊するなどした為、信長の怒りを買います。

 

上京では、銀を供出して、町の安全を担保しようとしますが及ばず、元亀4年(1573年)籠城した足利義昭を威嚇する名目で、1万人の織田軍により上京は焼き討ちされました。この時に焼けた民家は6000から7000軒に上ったそうです。

 

しかし、この焼き討ちの時ですら上京の人々は町同士で団結・協力して避難し、織田信長が上京を再興した時には、従来の町名がほとんど復活しています。良い面でも悪い面でも戦国の京都人の特徴が出たと言えるかも知れません。

 

参考文献:信長が見た戦国京都 城塞に囲まれた異貌の都

 

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織田信長スペシャル

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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