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この記事の目次
理由4:敵に根拠地を与えない
中世のお寺というのは、実はお寺と言いつつも、合戦を想定して伽藍を瓦屋根にするなど火矢に対する備えをしていました。逆に言うと、敵軍にお寺を根拠地にされると、かなりの守備力を与えてしまい、攻める時に損害が出るという事でもあります。
松永久秀の三悪にも数えられる東大寺大仏殿の戦いでも、松永久秀は池田勝正の軍勢に拠点を与えない為に、般若寺、文殊堂、仏餉堂、妙光院、観音院のような寺を焼き払っています。
そもそもからして、松永久秀と敵対していた三好三人衆は東大寺に本陣を置いていたのですから、ここで合戦になれば大仏殿も焼ける事になるのは自明でした。
まるで、「焼くなよ!絶対に焼くなよ!」と言いつつ、大仏の前で松明を握ってふらふらしている感じですね。
理由5:籠城に備えた焦土作戦
籠城戦においては、領民を城内に避難させて保護するかわりに敵兵の宿舎になりそうな、建物は焼き払う手段が取られる事がありました。いわば、焦土作戦です。
領民としては複雑な気分でしょうが、どの道、家を焼かなくても、包囲する敵軍が退却する時に、見せしめに焼き討ちをする事が多かったので、違いといえば自分で焼くか、敵が焼くかの違いでしかありません。
理由6:土地問題をリセットするため
織田信長は元亀4年(1573年)足利義昭と対立を深めて、烏丸中御門第に立て籠もって、抗戦した義昭への見せしめとして、上京を焼いたと書きましたが、実は、このアクションはただの見せしめではありませんでした。
当時の京都には地子銭という制度があり、大貴族や寺院から借地した人が、毎年銭で地代を支払っていましたが、上京は、歴史的経緯から、この権利関係が複雑であり、京都支配を進める信長の足かせになっていました。
そこで、信長は権利が複雑な上京区の税関係を一気に解決すべく、戦争にかこつけて上京を焼き払ったのです。その上で信長は、上京復興に着手しつつ、天正3年(1575年)上京に屋敷と借地を持っていた領主たちに対し、洛外に新しい土地を与えました。
例えば、近衛家の場合、五箇荘80石、西院内100石、西九条内40石と唐橋1O石、岩倉谷諸散在70石を新しく領地として与え、他にも30ばかりのケースが織田信長文書に見られるそうです。
信長は、こうして足利義昭に怒ったように見せかけて、面倒くさかった上京の地子銭問題を一気に解決してしまいました。本当の事を上京の人々が知れば、きっと激怒したでしょうが、つくづく信長という人は、巧妙な事をする人だと思います。
戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は戦国名物の焼き払いについて、色々考えてみました。よくよく考えると、足利義昭が建物に籠城したからって、関係ない上京を焼き払うのは辻褄が合わない話です。
いきおいで苛烈な性格の信長が、「将軍憎けりゃ上京も憎い」で、衝動的にやったと言われると、ちょっと納得してしまいそうなのが怖いですが…でも、実際は衝動どころか、上京の複雑な税金問題を解決するのに合戦を利用した。ただそれだけの話だったんですね。
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