素朴な疑問!なんで戦国武将は市街地を焼き払うの?

2020年11月29日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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炎上する城a(モブ)

 

戦国時代の合戦と言えば、市街地における焼き払いだと思います。野原での戦いならともかく、城攻めや市街地での戦いになると、戦国武将は必ずと言っていいほど、建物に火を放っていき、辺り一面ファイヤー祭りになるイメージです。

 

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

戦国の風雲児、織田信長(おだのぶなが)も初陣から市街地に火をつけ、最期には自分が本能寺で焼かれるという天正10年6月サマーフェスティバルを体現して死んでしまいました。でも、どうして戦国武将は市街地を焼き払うのでしょうか?

 

理由1:見せしめ

逃げ回る足利義昭

 

一番わかりやすい焼き払いの理由は、見せしめでしょう。代表的なのは織田信長の比叡山の焼き討ち、あるいは、叛いて籠城した足利義昭に対して、上京の市街地を焼き払ったケースがあげられます。俺に逆らったら、ここには住めなくなるぞ!というPRに焼き払い程、うってつけの方法はありません。

 

また、籠城して出てこない敵に対して城下を焼き払ってみせて、籠城している領民に対して、お前たちの領主は腰抜けの臆病者だと印象付ける狙いもあります。

 

実力が何より優先する戦国時代、度々、家が焼かれても領主が何もできないなら、敵に寝返って安全を図ろうと考える領民だって少なからずいたのです。

 

理由2:残敵の掃討

足軽b-モブ(兵士)

 

市街地における戦いは、見通しが悪いので、敵が市街地に(ひそ)んで死角から攻撃を仕掛けてくる可能性が常にありました。このため、安全の為に残敵が潜んでいそうな建物には火を放って、敵をあぶりだす為に、焼き払いが多用されたと考えられます。

 

五重塔(仏塔)仏教

 

応仁の乱では、京都市街が戦場になり、敵兵が隠れやすそうな大伽藍(だいがらん)を持つ寺も多い事から、頻繁に焼き払いがなされ、多くの建物が焼け落ちました。

 

はじめての戦国時代

 

理由3:煙幕の代わり

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

戦いが不利になった際に、退却する側が、退却方向を塞ぐ目的で周辺の建造物を焼き払うケースもありました。大火災が起きる事で、住民が逃げ惑い周辺が大混乱になるので、追撃する側も追撃がしにくくなる事があります。もっとも、こんな事に巻き込まれる住民はたまったものではありませんけどね。

理由4:敵に根拠地を与えない

爆死する松永久秀

 

中世のお寺というのは、実はお寺と言いつつも、合戦を想定して伽藍を瓦屋根にするなど火矢に対する備えをしていました。逆に言うと、敵軍にお寺を根拠地にされると、かなりの守備力を与えてしまい、攻める時に損害が出るという事でもあります。

 

松永久秀の三悪にも数えられる東大寺大仏殿の戦いでも、松永久秀は池田勝正の軍勢に拠点を与えない為に、般若寺、文殊堂、仏餉堂、妙光院、観音院のような寺を焼き払っています。

 

廃仏毀釈

 

そもそもからして、松永久秀と敵対していた三好三人衆は東大寺に本陣を置いていたのですから、ここで合戦になれば大仏殿も焼ける事になるのは自明でした。

 

まるで、「焼くなよ!絶対に焼くなよ!」と言いつつ、大仏の前で松明を握ってふらふらしている感じですね。

 

理由5:籠城に備えた焦土作戦

 

籠城戦においては、領民を城内に避難させて保護するかわりに敵兵の宿舎になりそうな、建物は焼き払う手段が取られる事がありました。いわば、焦土作戦です。

 

領民としては複雑な気分でしょうが、どの道、家を焼かなくても、包囲する敵軍が退却する時に、見せしめに焼き討ちをする事が多かったので、違いといえば自分で焼くか、敵が焼くかの違いでしかありません。

 

理由6:土地問題をリセットするため

資金が豊富な織田信長

 

織田信長は元亀(げんき)4年(1573年)足利義昭と対立を深めて、烏丸中御門第(からすまる・なかみかどだい)に立て籠もって、抗戦した義昭への見せしめとして、上京を焼いたと書きましたが、実は、このアクションはただの見せしめではありませんでした。

 

当時の京都には地子銭(じしせん)という制度があり、大貴族や寺院から借地した人が、毎年(ぜに)で地代を支払っていましたが、上京は、歴史的経緯(れきしてきけいい)から、この権利関係が複雑であり、京都支配を進める信長の足かせになっていました。

 

そこで、信長は権利が複雑な上京区の税関係を一気に解決すべく、戦争にかこつけて上京を焼き払ったのです。その上で信長は、上京復興に着手しつつ、天正3年(1575年)上京に屋敷と借地を持っていた領主たちに対し、洛外に新しい土地を与えました。

 

宋銭 お金と紙幣

 

例えば、近衛家の場合、五箇荘(ごかそう)80石、西院内(さいいんない)100石、西九条内(にしくじょうない)40石と唐橋(からはし)1O石、岩倉谷諸散在(いわくらないしょさんざい)70石を新しく領地として与え、他にも30ばかりのケースが織田信長文書に見られるそうです。

 

信長は、こうして足利義昭に怒ったように見せかけて、面倒くさかった上京の地子銭問題を一気に解決してしまいました。本当の事を上京の人々が知れば、きっと激怒したでしょうが、つくづく信長という人は、巧妙な事をする人だと思います。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は戦国名物の焼き払いについて、色々考えてみました。よくよく考えると、足利義昭が建物に籠城したからって、関係ない上京を焼き払うのは辻褄(つじつま)が合わない話です。

 

いきおいで苛烈な性格の信長が、「将軍憎けりゃ上京も憎い」で、衝動的にやったと言われると、ちょっと納得してしまいそうなのが怖いですが…でも、実際は衝動どころか、上京の複雑な税金問題を解決するのに合戦を利用した。ただそれだけの話だったんですね。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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