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素朴な疑問!なんで戦国武将は市街地を焼き払うの?


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戦国武将はなぜ市街地を焼き払う?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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理由4:敵に根拠地を与えない

爆死する松永久秀

 

中世のお寺というのは、実はお寺と言いつつも、合戦を想定して伽藍を瓦屋根にするなど火矢に対する備えをしていました。逆に言うと、敵軍にお寺を根拠地にされると、かなりの守備力を与えてしまい、攻める時に損害が出るという事でもあります。

 

松永久秀の三悪にも数えられる東大寺大仏殿の戦いでも、松永久秀は池田勝正の軍勢に拠点を与えない為に、般若寺、文殊堂、仏餉堂、妙光院、観音院のような寺を焼き払っています。

 

廃仏毀釈

 

そもそもからして、松永久秀と敵対していた三好三人衆は東大寺に本陣を置いていたのですから、ここで合戦になれば大仏殿も焼ける事になるのは自明でした。

 

まるで、「焼くなよ!絶対に焼くなよ!」と言いつつ、大仏の前で松明を握ってふらふらしている感じですね。

 

理由5:籠城に備えた焦土作戦

 

籠城戦においては、領民を城内に避難させて保護するかわりに敵兵の宿舎になりそうな、建物は焼き払う手段が取られる事がありました。いわば、焦土作戦です。

 

領民としては複雑な気分でしょうが、どの道、家を焼かなくても、包囲する敵軍が退却する時に、見せしめに焼き討ちをする事が多かったので、違いといえば自分で焼くか、敵が焼くかの違いでしかありません。

 

理由6:土地問題をリセットするため

資金が豊富な織田信長

 

織田信長は元亀(げんき)4年(1573年)足利義昭と対立を深めて、烏丸中御門第(からすまる・なかみかどだい)に立て籠もって、抗戦した義昭への見せしめとして、上京を焼いたと書きましたが、実は、このアクションはただの見せしめではありませんでした。

 

当時の京都には地子銭(じしせん)という制度があり、大貴族や寺院から借地した人が、毎年(ぜに)で地代を支払っていましたが、上京は、歴史的経緯(れきしてきけいい)から、この権利関係が複雑であり、京都支配を進める信長の足かせになっていました。

 

そこで、信長は権利が複雑な上京区の税関係を一気に解決すべく、戦争にかこつけて上京を焼き払ったのです。その上で信長は、上京復興に着手しつつ、天正3年(1575年)上京に屋敷と借地を持っていた領主たちに対し、洛外に新しい土地を与えました。

 

宋銭 お金と紙幣

 

例えば、近衛家の場合、五箇荘(ごかそう)80石、西院内(さいいんない)100石、西九条内(にしくじょうない)40石と唐橋(からはし)1O石、岩倉谷諸散在(いわくらないしょさんざい)70石を新しく領地として与え、他にも30ばかりのケースが織田信長文書に見られるそうです。

 

信長は、こうして足利義昭に怒ったように見せかけて、面倒くさかった上京の地子銭問題を一気に解決してしまいました。本当の事を上京の人々が知れば、きっと激怒したでしょうが、つくづく信長という人は、巧妙な事をする人だと思います。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は戦国名物の焼き払いについて、色々考えてみました。よくよく考えると、足利義昭が建物に籠城したからって、関係ない上京を焼き払うのは辻褄(つじつま)が合わない話です。

 

いきおいで苛烈な性格の信長が、「将軍憎けりゃ上京も憎い」で、衝動的にやったと言われると、ちょっと納得してしまいそうなのが怖いですが…でも、実際は衝動どころか、上京の複雑な税金問題を解決するのに合戦を利用した。ただそれだけの話だったんですね。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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