戦国時代の合戦と言えば、市街地における焼き払いだと思います。野原での戦いならともかく、城攻めや市街地での戦いになると、戦国武将は必ずと言っていいほど、建物に火を放っていき、辺り一面ファイヤー祭りになるイメージです。
戦国の風雲児、織田信長も初陣から市街地に火をつけ、最期には自分が本能寺で焼かれるという天正10年6月サマーフェスティバルを体現して死んでしまいました。でも、どうして戦国武将は市街地を焼き払うのでしょうか?
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理由1:見せしめ
一番わかりやすい焼き払いの理由は、見せしめでしょう。代表的なのは織田信長の比叡山の焼き討ち、あるいは、叛いて籠城した足利義昭に対して、上京の市街地を焼き払ったケースがあげられます。俺に逆らったら、ここには住めなくなるぞ!というPRに焼き払い程、うってつけの方法はありません。
また、籠城して出てこない敵に対して城下を焼き払ってみせて、籠城している領民に対して、お前たちの領主は腰抜けの臆病者だと印象付ける狙いもあります。
実力が何より優先する戦国時代、度々、家が焼かれても領主が何もできないなら、敵に寝返って安全を図ろうと考える領民だって少なからずいたのです。
理由2:残敵の掃討
市街地における戦いは、見通しが悪いので、敵が市街地に潜んで死角から攻撃を仕掛けてくる可能性が常にありました。このため、安全の為に残敵が潜んでいそうな建物には火を放って、敵をあぶりだす為に、焼き払いが多用されたと考えられます。
応仁の乱では、京都市街が戦場になり、敵兵が隠れやすそうな大伽藍を持つ寺も多い事から、頻繁に焼き払いがなされ、多くの建物が焼け落ちました。
理由3:煙幕の代わり
戦いが不利になった際に、退却する側が、退却方向を塞ぐ目的で周辺の建造物を焼き払うケースもありました。大火災が起きる事で、住民が逃げ惑い周辺が大混乱になるので、追撃する側も追撃がしにくくなる事があります。もっとも、こんな事に巻き込まれる住民はたまったものではありませんけどね。
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