「岩村城」は岐阜県恵那市にある日本三大山城(あとの2つは高取城(奈良県高取町)と備中松山城(岡山県高梁市)のひとつです。最大の魅力はその古さでしょう。
1185 年、源頼朝の家臣「加藤景廉」が遠山荘の地頭となり、景廉の長男景朝が 岩村城を築いたという資料があり、また太平記によると1337年(鎌倉時代の終わり)にはここに城があったと記されています。
犬山城の築城が1537年ですから、それより350年とか200年も前の事です。広く知られている戦国時代の歴史の表舞台には出てきませんが、岩村城のあたりは「織田家」「武田家」そして「徳川家」が激しく土地を奪い合っていた場所に位置しています。
山城でありながら威圧するような大きな天守を織田信長が安土城に造ったことで、それ以降は大きな天守が城の代名詞になりました。しかしそれ以前は山城が戦の「砦」としての役割を果たしていました。その代表格である「岩村城」を知ることで、各地で小さな戦が繰り広げられていた戦国時代まっただ中を体感できます。さあ、戦国時代にタイムスリップしましょう。
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もうひとりの「おんな城主」の里 いわむら
岩村城主として織田信長の五男「御坊丸」を養子として迎えた際、まだ幼少であったため、その義母である「おつや」(織田信長の叔母)が実質的な城主として、領地を治めていました。いわゆるおんな城主「おつやの方」です。領民にはとても人気があり、慕われていたそうですが、幸せな日々は長く続きません。
武田信玄の臣下である「秋山虎繁(信友)」が侵攻してきた際、おんな城主「おつやの方」が虎繁の妻となることを条件に無血開城を迫りました。おんな城主「おつやの方」は悩みに悩んだ挙句。家来や領民の命を守るため、敵将虎繁との結婚を決意し、開城することとなります。
その後数年間にわたり、虎繁とともに、城の普請や城下町の守備に勤しみ、平和な日々を 過ごしましたが、やはり長くは続きません。
1575 年長篠の戦いで武田軍が織田軍に敗戦したことにより、武田と織田の勢力が 逆転し、「織田信忠」率いる織田軍が「岩村城」に攻め入り、最後には夫婦ともども織田信長に殺されてしまいました。
しかし、領民には自分たちを守ってくれたおんな城主「おつや」に対する思いは強く、城下町に広がるお店の暖簾には、おんな城主「おつやの方」にちなんでおかみさんの名前を記載する伝統が、400年以上続いているようです。
水が豊富だったことがわかる霧ヶ井戸(きりがいど)伝説
山城の弱点は長い籠城に耐えられないことです。食料の備蓄には限りがありますし、まして水は人間が生きていくにはどうしても必要です。「岩村城」は山城であるにも関わらず、井戸があり水は豊富にありました。特に霧ヶ井戸と呼ばれる井戸は、日照りが続いても決して枯れることがなかったと言われており、今でいう都市伝説まで生まれています。
敵が攻めてきたときに、城内秘蔵の蛇骨を この井戸に投じると、たちまちに城が霧に被われて城を守ったというのです。このことから、「岩村城」の別名「霧ヶ 城」と呼ばれています。それほどまでに水が豊富だったんですね。余談ですが、日本一高いところ(標高717m)にある城と言われる「岩村城」の本丸にも昇竜の井戸があり、当時はこちらも枯れたことがないそうです。
足腰に不安がなければ、徒歩で山城を体感しよう
石垣などが残る城址本丸付近までは車で行くこともできますが、足腰に不安がないのであれば、やはり徒歩で登っていただきたいです。山の麓に岩村歴史資料館があり、多くの見物客がここに車を停めて登っていきますので、車で来ても安心です。
登城坂の石畳を800mほど登れば、20~30分くらいで城址本丸に到着します。 難攻不落の山城の壮大さをより肌で感じることができますし、この山城をどうやって攻めるのか、といった軍師的な思いをめぐらせながら、ぜひ散策していただきたい道のりです。
また、関ヶ原の戦いの翌年である1601年に建設された藩主邸は、1881年に火事で焼失してしまったのですが、1990年に太鼓櫓、表御門、平重門などが復元されました。太鼓櫓とは、音によって時を知らせたり戦いの合図をするために建てられた櫓です。天守はありませんが、建造物としての見どころも兼ね備えています。
三種類の積み方が一度に鑑賞できる石垣
石垣は積み方や石の加工法によって分類されますが、「岩村城」では、野面(のづら)積み、打ち込みハギ、切込ハギの三酒類の積み方を一度に見ることができます。
野面積みとは最も古い方法です。自然石を加工せず、そのまま積み上げた石垣の建造方法を指します。鎌倉時代末期から見られるようになり、戦国時代の初期の石垣はほとんどがこの方法で積まれています。
打ち込みハギとは、表面に出っ張っている石の角や面をたたき、平たくした石同士の接合面が合うように加工した石で積み上げる建造方法です。関ヶ原の戦い以後、この手法が盛んに用いられるようになりました。野面積みより高くて急な勾配の石垣を建造することが可能です。
切込ハギとは四角形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法で、江戸時代初期以降に多用されるようになりました。「岩村城」にある、高石垣の崩落を防ぐために造られた六段壁などはこれにあたります。
史実と照らし合わせると、打ち込みハギで造られた石垣は1601年の藩主邸が造られた際に、切込ハギで造られた石垣は1718年の石垣修復時に造られた石垣だと考えられます。
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