漫画キングダムの大ヒットで脚光を集めているのが秦の始皇帝です。ライバルだった戦国六国を、韓を皮切りに10年で滅ぼした秦帝国ですが、その秦は僅か15年で滅亡します。
従来、その原因は始皇帝の墓の造営や万里の長城のような大土木工事だと考えられてきましたが、本当はそれ以外にも原因がありました。それは、秦が中華を統一した政治体制そのものにあったのです。
この記事の目次
貧しい秦が選択した商軮の政治改革
紀元前221年に戦国七雄を次々に滅ぼして中華を統一した秦帝国。しかし、そんな秦は統一の130年程前までは、韓や魏のような周辺国と小競り合いを繰り返している程度の国でした。
それもそのはずで、秦は中国文明発祥の地から大分離れた未開の国であり、三晋と呼ばれた韓、魏、趙に比較しても国全体では貧しかったのです。ところが、そこに商軮という外国人が入ってきて秦王の信用を得ると、秦を丸ごと造り替えるような大改革を開始します。それが、秦の全ての人的資源や物的資源を王に直属させ、小さい国力を集中して強くする統制体制でした。
権力が分散化し大家族主義で貧しかった秦
商軮が改革を断行するまで、秦は地方では豪族が権力を持ち、中央でも王族が王とは別に軍事力を保有する封建社会でした。また、秦は大家族主義で、1つの家に親兄弟親戚が集まって住んでいます。三晋の地域では、家は核家族が普通になりつつあったので、秦のこのような大家族主義は、文化の遅れた野蛮な風習と周辺国に捉えられる原因になっていました。
実際、この大家族主義のせいで、秦人は中々分家をして農地を広げるという事をせず、国土が広い割には人口が少ない状態にあり、こんな状態では中華統一など不可能です。そこで商鞅は、秦の弱点をひっくり返す政策を取ります。
—熱き『キングダム』の原点がココに—
人民を地縁と血縁から切り離して個別に支配
商鞅は、生産力の低さに繋がる大家族主義を打ち破る為に、次男以下は成人したら、必ず実家を出て、よその土地に家を構えるよう法律で決定します。
それも、好き勝手に家を建てられるのではなく政府が指定した場所に住まなければなりません。時には、何百キロも実家から離される事になり家族との縁は切れました。さらに商鞅はこうして、よそもの同士が集まって出来た村に対し、お互いを監視するように命じ、もし犯罪を知りながら報告しなければ連帯責任。進んで密告すれば褒美を出すと約束します。
これは什伍の制と言い、住民はお互いに監視させられると同時に戦争では什伍で組まされた世帯同士でチームを組んで戦いました。以後は、農業でも戦争でも、什伍は絶えず競い合わさせられ、成績が良い者は褒美を与えられ、怠け者や出来が悪い者は処罰されます。
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地方豪族から権力を奪い、王族も無力化する
商鞅は、同じ要領で地方の豪族から権力を取り上げて官と呼ばれる王の命令にのみ従う役人を置き、王族からも兵権を取り上げ、手柄もなしに王族に留まる事は出来ないように、法律を改めました。
そして商鞅は、このシステムを侵す者を容赦なく処刑したので、秦の全人民は震え上がり、少しも怠けず必死に働くようになり、秦の国力はドンドン増加していきます。商鞅の死後も、この国家総動員システムは継続され、秦が中華を統一した後まで130年以上も続いたのです。
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