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三国時代になると補給が整備される
魏呉蜀で真っ先に兵站を整備して補給を重視したのは、魏の曹操でした。自身が反董卓連合軍の無残な有様を体験し、その後も呂布との戦いで食糧不足に悩まされただけあり、屯田制を取り入れて食糧増産にも初期から気を配っています。
だからこそ、曹操は袁尚や袁煕を追って烏桓を討伐したり、荊州を降伏させたり潼関で馬超や関中軍閥と戦うなどで長期遠征が可能になったのです。
その後は、呉や蜀も政治体制を整え兵站を備えていき、そのお陰もあって北伐や合肥攻めも可能になっています。兵站は、もっとも重要なポイントなので、魏呉蜀とも優秀な人材をその任に宛てていましたから、反董卓連合軍から考えると、随分と変化しました。
三国志ライターkawausoの独り言
反董卓連合軍の崩壊の理由は、内輪もめではなく、いきあたりばったりの挙兵で兵糧が尽きてしまい、飢えに耐えられなくなった為に、銘々の本拠地に引き上げた。こうして書くと何だかガッカリですが、その後を考えると補給を重視した曹操が、最も強力な国家を建国し、天下統一へももっとも近づいたのですから、補給は大切ですね。
参考:正史三国志
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