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この記事の目次
鍾会の最期
264年1月18日、胡烈の軍兵が胡烈の子と共に鼓を連打して営門を出ます。これに併せて諸軍の兵も期せずして皆が鼓を叩いて出撃、督促する指揮官もないのに兵は、先を争うようにして成都の城壁に群がりました。
この時、鍾会はまさに姜維に鎧と杖を与えている所でしたが、城外の魏兵が城壁を乗り越えていると伝令から聞くとパニックになります。
「きょうえもーん!外の兵が僕に危害を加えようとしているよ!どどど、どうしよう?」
「のび…、ゴホン!どうするもなにも迎え撃つだけです!」
鍾会は兵を派遣して幽閉した諸々の牙門将と郡守を殺してしまおうとしますが、すでに内部では机を積み上げるなどして中に入れないようになっていました。
こうしている間に成都城の門外にはハシゴが掛けられて魏兵が次々と城内に乱入、ある者は城屋を焼き、ある者は城壁に蟻のように数珠繋ぎになり進みます。矢は雨の如く降り牙門や郡守は各々屋根に縋って脱出し、監督する兵を掌握しました。
姜維は鍾会の左右の者を率い自ら5〜6人を殺しますが、間もなく大勢の魏兵にメッタ斬りにされました。姜維を殺した後、兵士たちは鍾会を殺しに殺到。こうして鍾会は40歳の生涯を閉じたのです。
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まとめ 鍾会
鍾会は権謀術数に優れ、邪魔者を平気で粛正する陰険さをもっていましたが、一方で、役所に閉じ込めて兵士との連絡を絶った牙門将や郡守をさっさと殺さないで躊躇して活かしておくなど、優柔不断な点が目立ちました。
そして、何よりも自ら兵を指揮した事がなく、兵の気持ちを斟酌できないのが最悪の形で反映されてしまいましたね。
また、不思議な事に晋書の衛瓘伝では、衛瓘が仮病を使って成都城を抜け出し、魏兵の指揮を執って、鍾会と姜維を殺害した事になっていますが、正史三国志の鍾会伝では、衛瓘は鄧艾を逮捕する辺りでしか登場せず魏兵は指揮官もいないのに、統制された行動を取った事になっています。
参考文献:正史三国志 鍾会伝
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