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この記事の目次
鍾会謀反を決意する
しかし、この頃すでに鍾会は心中に邪悪な野心を秘めていました。すでに諸葛緒を臆病で率先して進まないと司馬昭に讒言して護送車に載せて洛陽に送還し、3万の兵力を奪っていた鍾会は、この頃、独断専行が目立っていた鄧艾が謀反を企んでいると司馬昭に密告。
司馬昭の許可を得て、監査の衛瓘に鄧艾を逮捕させ、護送車に載せて洛陽に送還しました。
「はっはっは!やったぞ、鄧艾さえ追い払ってしまえば、もはや恐れる者はない…私は、もはや二度と他人の下にはつくまいぞ!」
鍾会は鄧艾の兵力3万も没収し、魏軍の兵力だけで16万人、投降した蜀兵5万人で合計21万人を擁し、ついに天下を獲るべく計画を練ります。
鍾会の計画では、姜維を将軍としすべての蜀兵を率いさせて斜谷に出撃させます。その後、鍾会は自ら大軍を率いて後続し、長安に至った後は騎士に命じて陸路を進み、歩兵には水路を進ませ渭河に浮いて黄河を遡上し五日以内に孟津に到着させます。そして、先行の騎兵と洛陽で会同すれば1日で天下は獲れるとしていました。
司馬昭の書簡に恐れを抱く
しかし、鍾会がそんな事を考えている時、洛陽の司馬昭が鍾会に書簡を与えます。
そこには
”鄧艾が大人しく洛陽まで戻らない事を恐れているので、今、中護軍賈充を派遣して歩騎万人を率いてただちに斜谷に入らせて楽城に駐屯させよう。私は自ら十万を率いて長安に駐屯しているぞ、君に再会できる日も近い”
みたいな内容が書かれていました。
鍾会は手紙を読んで戦慄し、親族を呼び出すと
「鄧艾如きを護送するのは私1人で充分なのに、敢えて賈充を寄こしてきたのは、私が謀反を企んでいる事を知ったに違いない。もはや一刻の猶予もならん。反乱が成功すればよし!失敗しても劉備くらいにはなれよう!」と言い放ち
謀反計画を早める事を決意します。
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鍾会がクーデターを決行!
鍾会は264年の正月15日に成都に到り、翌日に護軍・郡守・牙門の騎督以上および蜀の故官の悉くを招き寄せて太后の為に蜀の朝堂で喪を発しました。
そして太后の遺詔を偽造
「亡き太后様より兵を起して司馬昭を廃せよと勅命が下った!」とし晋を征伐すると宣言。それを終えると信用できる者たちに改めて兵を任せます。
こうしておいて、それ以外の群官を捕らえて益州の役所に幽閉し、成都の城門と宮門を全て閉ざして戒厳の兵で周囲を守らせました。
鍾会の帳下督丘建は、元は胡烈の配下だったので幽閉されている胡烈を憐れんで鍾会に、それぞれの部隊長につき1名ずつ兵士を選抜して食事を共にさせるように提案、鍾会は提案を受け入れます。
ところが、これが仇になりました。胡烈は自分の部下と食事を摂っている際に見張りの兵の目を盗んで
「鍾会は蜀の王になろうと考え、邪魔になる魏の兵を城に招き入れ穴埋めにするため、沢山の穴を掘り、撲殺用の数千本の白棒を準備している」と嘘を告げました。
元々、やたらに厳しいだけで人望がない鍾会は兵に嫌われており、胡烈の嘘は本当の事として、あっという間に城外にいる魏兵全てに広がります。不穏な空気は鍾会の側近にも伝わり、今のうちに幽閉した指揮官達を皆殺しにして後顧の憂いを断ちましょうと側近たちは進めますが、鍾会は決断できないまま時間が過ぎました。
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