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蜀は政治が機能し呉は無政府状態?
蜀と呉の降伏時の違いでは、劉禅が降伏した時には蜀の人民の簿籍を尚書郎の李虎という人物から鄧艾に送らせているのに対し、孫晧の場合には、間に誰か入った様子がなく、王濬が自ら図籍を接収したように見える事です。
これを見ると蜀に比較して呉の最期は無政府状態になり、占領軍になった王濬は無人の宮殿に入り、手分けして行政文書を捜索し自分で図籍を発見したという見方も出来るかも知れません。あわせて考えてみると、蜀の方が官吏は呉よりも圧倒的に多いので、最後まで行政機構が機能していたという事でしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は呉蜀の滅亡時の会計帳簿から、それぞれの王朝の経済状況について、かなり推測を交えて読み解いてみました。独断と偏見を交えて二国を対比させると、戦争を継続させる国力については、呉が大きくまさっていて、逆に統治能力については蜀の方が最後まで維持されていたと考える事が出来そうです。
そして、孫晧の後宮に美女5千人という圧倒的数字を考えると、董允に妃を増やしてくれと懇願してあっさり却下された劉禅は、スケベ度では孫晧に負けていると言えるでしょう。
参考文献:正史三国志
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