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実は劉備も孔明も知らない所で全てが決まった
実は、この武侯祠のある場所、蜀漢が滅亡した時まで劉備の墓しかありませんでした。ところが、蜀が滅亡してから40年余り後に、成漢を建国した李雄が現在の場所に諸葛孔明の霊を祀る武侯祠を築いたのです。
やがて劉備の墓と諸葛亮の祠は、三国志演義の影響もあってか明の時代になると、劉備の墓が孔明の武侯祠に吸収される形で一体化されてしまったのです
と言う事は李雄が武侯祠を劉備の墓の近くに建立しなかったら、今でも劉備の墓と諸葛亮の墓は別々のまま存続し続けたかも知れませんね。夢が壊れてしまいますが、歴史というのは案外そんなものなのでしょう。
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武侯祠が出来たのは蜀漢の末期
劉備の墓と孔明の廟というセットは成漢の李雄のアイデアと言いましたが、実際には李雄がやらなくても遅かれ早かれ成都には、武侯祠が建てられ、劉備の墓と混ざったかも知れません。
襄陽記には、孔明没後、その遺徳を偲んで庶民が成都に孔明の廟を建てるように請願が相次いだとされています。
しかし、当時の朝廷は、家臣に過ぎない諸葛孔明の廟を建てるのは君臣の別を危うくするとして反対して請願を拒否しました。すると蜀の人々は、勝手に道端に諸葛孔明の祠を建てて祀り始めてしまったのです。
そこで劉禅は折衷案を取り、武侯祠を成都でもなく定軍山でもなく漢水の北に建てました。これは正しく魏との国境線であり、諸葛亮の霊力に劉禅以下蜀の朝廷が情なくも縋っていた証拠とも言えます。
こういう前例があったので、李雄は武侯祠を成都に建てようとしたのかも知れず、遅かれ早かれ武侯祠は劉備の墳墓の近くに出来、やがてそれを飲み込む運命だったかも知れませんね。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は、諸葛孔明はどうして、成都ではなく定軍山に葬られているのか考えてみました。思えば定軍山で魏の夏侯淵を黄忠が討ち取った頃が、劉備軍団の全盛期のような気がするので、孔明はその頃の元気な劉備軍団の時代を懐かしんで、定軍山に遺骸を埋めたのかなと思えてきました。
まさか、定軍山の大戦果から10年の間に五虎大将が全部死に劉備も鬼籍に入るなんて、さしもの諸葛孔明も考えなかったでしょうから…
参考文献:正史三国志
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