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なぜ蜀漢の北伐は兵站維持に失敗したのか?食料事情から原因を考察


 

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孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)姜維(きょうい)は魏国に対する北伐を何度も行っていますが、その大半が兵站(へいたん)維持の失敗による撤退となっています。

 

祁山、街亭

 

兵站が維持できなかった原因は、本拠地の益州(えきしゅう)が山岳地帯であり、物資の運搬が難しかった事と言われていますが、現代ではその難しさが想像できません。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

そこで今回は蜀漢の本拠地である益州の主食や運搬方法などから、兵站維持に失敗した背景を考察していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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益州の主食

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

蜀中広記(しょくちゅうこうき)華陽国志(かようこくし)によると益州では米を主に栽培していました。成都近郊にある成都平原には都江堰(とこうえん)と呼ばれる灌漑(かんがい)施設があり、これによって稲作が盛んに行われていたようです。

 

五斗米道の教祖・張魯

 

もともと成都近郊で普及しはじめた五斗米道(ごとべいどう)も「信者に5斗の米を寄付させた」ためにその名がついたと言われているので、成都近郊では米が一般的に普及していたことがわかります。他にも華陽国志の漢中志には、丘陵地帯を利用した棚田を設けられたことが記載されていますし、これらは現在でも残り続けています。

 

兵糧(食料)を管理する任峻

 

ただ、現四川省の古墳から出土した漢代の稲穂は、1束あたりの粒数が現代の米と比較しても半分程度しか実っていなかったようなので、地質や気候のせいか生産効率は高くなかったのかもしれません。

 

益州北部では麦の栽培

水滸伝って何? 書類や本

 

周礼(しゅらい)の記載によると青州(せいしゅう)付近では麦の栽培が行われていて、三国時代には長安など関中一帯に広まったとあります。

 

鄧艾と姜維

 

実際に鄧艾(とうがい)は姜維の北伐に際して、祁山(きざん)の麦を狙うだろうと予想していますし、諸葛亮も第四次北伐では祁山の麦を収穫しています。

 

姜維

 

加えて華陽国志でも姜維が黄皓(こうこう)との衝突を避けるために、陰平郡にある沓中という場所で麦を植えたという話が残っているので、益州北部を堺に雍州一帯は麦が大量に栽培されていたようです。

 

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黄皓

 

 

蜀漢の食糧事情

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

劉璋(りゅうしょう)が益州を治めていた時代は、長らく戦禍を避けていたこともあり、土地は肥えていたと言います。そのため、成都平原を中心に大きな穀倉地帯となり「天府之国(てんぷのくに)」と呼ばれていました。

 

蜀志(蜀書)_書類

 

法正伝(ほうせいでん)でも「劉備(りゅうび)軍は輜重(しちょう)がなく野にある穀物を糧としている」という記載があることから、食料は現地調達が可能な程に豊富だったのでしょう。

 

三国志の計略と孔明

 

また、水経注には諸葛亮が北伐をした際、1200人の官吏を都江堰の防護の任に就かせたとあり、その規模の大きさが伺えます。こうした点を考えると、諸葛亮が存命中は食料不足が兵站維持に失敗した原因ではないようです。

 

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運搬の問題点

木牛流馬を使用する蜀兵士

 

戦は兵糧の有無、そして維持が戦局を大きく左右されたと言われています。その兵糧は牛や馬に引かせて前線へと送られますが、輜重部隊の行軍は通常の進軍速度よりも遅いです。

 

木牛流馬

 

なので、先にある程度の量を前線に送ったとしても、継続して運搬しなければすぐに枯渇してしまいます。そこで活用されるのが牛車や馬車など一度に大量の荷物を運ぶ方法ですが、益州は山と山を結ぶ細い桟道しかありません。

 

三国志の武器 虎戦車 諸葛亮孔明

 

そのため、諸葛亮は木牛と流馬という運搬用の工具を開発します。これらは第四次と第五次の北伐で利用されているので、これで運搬効率は改善したようです。

 

長雨にあたり食料の輸送が間に合わず孔明にバレることを怯える李厳

 

ただ、第四次北伐では兵糧運搬の責任者となった李厳(りげん)が、途中で補給を止めてしまう事態があり、失敗に終わっています。

 

庶民に落とされた李厳

 

諸葛亮も李厳がいい加減な性格であると知りながら重用していたようなので、人材不足は深刻なレベルだったのでしょう。

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

また、第五次では木牛流馬を使いつつも屯田を行って、長期戦への備えを見せているので、後方の補給が途絶えることも想定していたのではないでしょうか。

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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