なぜ蜀漢の北伐は兵站維持に失敗したのか?食料事情から原因を考察

2021年8月2日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)と姜維(きょうい)は魏国に対する北伐を何度も行っていますが、その大半が兵站(へいたん)維持の失敗による撤退となっています。

 

祁山、街亭

 

兵站が維持できなかった原因は、本拠地の益州(えきしゅう)が山岳地帯であり、物資の運搬が難しかった事と言われていますが、現代ではその難しさが想像できません。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

そこで今回は蜀漢の本拠地である益州の主食や運搬方法などから、兵站維持に失敗した背景を考察していきたいと思います。

 

益州の主食

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

蜀中広記(しょくちゅうこうき)や華陽国志(かようこくし)によると益州では米を主に栽培していました。成都近郊にある成都平原には都江堰(とこうえん)と呼ばれる灌漑(かんがい)施設があり、これによって稲作が盛んに行われていたようです。

 

五斗米道の教祖・張魯

 

もともと成都近郊で普及しはじめた五斗米道(ごとべいどう)も「信者に5斗の米を寄付させた」ためにその名がついたと言われているので、成都近郊では米が一般的に普及していたことがわかります。他にも華陽国志の漢中志には、丘陵地帯を利用した棚田を設けられたことが記載されていますし、これらは現在でも残り続けています。

 

兵糧(食料)を管理する任峻

 

ただ、現四川省の古墳から出土した漢代の稲穂は、1束あたりの粒数が現代の米と比較しても半分程度しか実っていなかったようなので、地質や気候のせいか生産効率は高くなかったのかもしれません。

 

益州北部では麦の栽培

水滸伝って何? 書類や本

 

周礼(しゅらい)の記載によると青州(せいしゅう)付近では麦の栽培が行われていて、三国時代には長安など関中一帯に広まったとあります。

 

鄧艾と姜維

 

実際に鄧艾(とうがい)は姜維の北伐に際して、祁山(きざん)の麦を狙うだろうと予想していますし、諸葛亮も第四次北伐では祁山の麦を収穫しています。

 

姜維

 

加えて華陽国志でも姜維が黄皓(こうこう)との衝突を避けるために、陰平郡にある沓中という場所で麦を植えたという話が残っているので、益州北部を堺に雍州一帯は麦が大量に栽培されていたようです。

 

関連記事:悪臣で有名な黄皓は「無能」ではなかった

関連記事:黄皓の最期を振り返る!本当に蜀を滅亡に追い込んだのか?

 

黄皓

 

 

蜀漢の食糧事情

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

劉璋(りゅうしょう)が益州を治めていた時代は、長らく戦禍を避けていたこともあり、土地は肥えていたと言います。そのため、成都平原を中心に大きな穀倉地帯となり「天府之国(てんぷのくに)」と呼ばれていました。

 

蜀志(蜀書)_書類

 

法正伝(ほうせいでん)でも「劉備(りゅうび)軍は輜重(しちょう)がなく野にある穀物を糧としている」という記載があることから、食料は現地調達が可能な程に豊富だったのでしょう。

 

三国志の計略と孔明

 

また、水経注には諸葛亮が北伐をした際、1200人の官吏を都江堰の防護の任に就かせたとあり、その規模の大きさが伺えます。こうした点を考えると、諸葛亮が存命中は食料不足が兵站維持に失敗した原因ではないようです。

 

関連記事:任峻(じんしゅん)とはどんな人?屯田制を実行し魏軍の食料庫をパンパンにした男

関連記事:曹操軍の食料担当にはなりたくない!!その理由とは?

 

■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■

古代中国の暮らし図鑑

 

運搬の問題点

木牛流馬を使用する蜀兵士

 

戦は兵糧の有無、そして維持が戦局を大きく左右されたと言われています。その兵糧は牛や馬に引かせて前線へと送られますが、輜重部隊の行軍は通常の進軍速度よりも遅いです。

 

木牛流馬

 

なので、先にある程度の量を前線に送ったとしても、継続して運搬しなければすぐに枯渇してしまいます。そこで活用されるのが牛車や馬車など一度に大量の荷物を運ぶ方法ですが、益州は山と山を結ぶ細い桟道しかありません。

 

三国志の武器 虎戦車 諸葛亮孔明

 

そのため、諸葛亮は木牛と流馬という運搬用の工具を開発します。これらは第四次と第五次の北伐で利用されているので、これで運搬効率は改善したようです。

 

長雨にあたり食料の輸送が間に合わず孔明にバレることを怯える李厳

 

ただ、第四次北伐では兵糧運搬の責任者となった李厳(りげん)が、途中で補給を止めてしまう事態があり、失敗に終わっています。

 

庶民に落とされた李厳

 

諸葛亮も李厳がいい加減な性格であると知りながら重用していたようなので、人材不足は深刻なレベルだったのでしょう。

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

また、第五次では木牛流馬を使いつつも屯田を行って、長期戦への備えを見せているので、後方の補給が途絶えることも想定していたのではないでしょうか。

 

関連記事:実はガラクタ疑惑も諸葛亮が発明した木牛流馬とは?

関連記事:諸葛亮、木牛を作って兵站確保するも、虚偽申告発覚で北伐失敗を考察

関連記事:諸葛亮が発明した運送器具「木牛」と「流馬」の目的とは?

気候による問題

三国志 兵糧攻め 村人

 

盆地は雨が降りやすい場所ですが、漢中盆地と四川盆地でも夏から秋にかけて、長期間に渡る雨が降っていたようです。前述したように益州の主食は米であり、通常であれば5年ほど保存できますが、雨に濡れてしまうとカビが発生して食べられなくなります。

 

北伐する孔明

 

つまり、この雨の時期を避けるというのも北伐の成功に大きく関わったのではないでしょうか。諸葛亮の北伐は陳倉方面や祁山など食料の豊富な場所へ侵攻していますが、運搬の難しさから現地調達を試みたが、魏もそれを読んでいるので防がれてしまい、撤退を余儀なくされたとも考えられます。

 

関連記事:姜維の度重なる北伐!戦果はあったのか?

関連記事:三国志の名政治家、諸葛孔明が無謀な北伐を繰り返した理由とは?

 

【北伐の真実に迫る】

北伐

 

姜維の北伐失敗の理由

正史三国志_書類

 

諸葛亮は前述したように人材不足や運搬の難しさから、北伐に失敗してしまった可能性が高いですが、姜維も同じでしょうか。筆者は別に理由があると思います。なぜなら、後主伝の注釈によれば蜀漢滅亡時の米の量は、わずか40数万石しかなかったからです。

 

魏志(魏書)_書類

 

鄧艾伝を参考にすると「3000万石あれば10万の兵が5年は食べていける」量になるので、1ヶ月で50万石は消費するということ。蜀漢も滅亡時には兵士が10万2千人いたようなので、1ヶ月分もなかった計算になります。

 

呉志(呉書)_書類

 

比較対象として呉の滅亡時の兵糧は280万石でした。しかも279年には飢饉があったと孫亮伝(そんりょうでん)にあるので、蜀漢の兵糧不足はかなり深刻だったということです。

 

費禕

 

これは度重なる戦で人口が減少したことや、蔣琬(しょうえん)や費禕(ひい)のような有能な人材も現れず、政治腐敗によって生産能力が低下した可能性があります。

 

姜維怨嗟の声

 

姜維は北伐で国力を疲弊させたことを責められていますが、国内での食料供給が厳しくなっていることから、姜維は麦の栽培や敵地での収穫に頼るしかなかったのではないでしょうか。

 

関連記事:孫晧は北伐に失敗していた?【隠された真実】

関連記事:関羽は馬超を敵視したのではなく利用した?関羽の荊州統治と北伐戦略

 

姜維特集

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

諸葛亮と姜維が兵站維持に失敗した理由は、事情が若干異なるものの、大別すると運搬の難しさと人材の不足が挙げられます。

 

劉邦と簫何(蕭何)

 

かつて劉邦(りゅうほう)が北伐をした際は、蕭何(しょうか)が後方で兵站維持をしっかり行ったように、諸葛亮にも安心して後方を任せられる人物、あるいは大軍を率いる将が必要だったのではないでしょうか。

 

劉邦と陳平と張良

 

兵糧の運搬については、劉邦の時代には漢水を使った水運での兵糧運搬ができたようです。しかし、紀元前156年に発生した武都大地震によって地形が大きく変わり、漢中盆地や関中平原へ通じる水路は失われたといいます。

 

ちょっとやり過ぎたと反省する諸葛亮孔明

 

そう考えると、いくら兵糧が十分にあっても漢中から関中へと攻め込むのは、現実的にほぼ不可能だったのかもしれません。

 

関連記事:諸葛亮ブチギレ!曹真の凄さが分かる!街亭の戦いと北伐での圧勝

関連記事:街亭の戦いで蜀が勝っていたら?電撃作戦を狙っていた北伐【if三国志】

 

南蛮征伐特集

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

-諸葛亮
-, , ,