諸葛亮はなぜ劉備の墓がある成都ではなく定軍山に葬られたのか?

2021年8月1日


 

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過労死する諸葛孔明

 

西暦234年、蜀の丞相諸葛亮(じょうしょう・しょかつりょう)は五度目の北伐で司馬懿(しばい)に敗れ失意の内に五丈原で陣没します。そんな孔明の(ひつぎ)は当然、劉備も眠る成都に埋葬されるかと思いきや、外ならぬ諸葛孔明の遺言で定軍山に葬られてしまいました。

 

kawausoさん

 

オウ!マイガッ!水魚の交わり君臣の絆は永遠ではなかったのか?

今回は、どうして諸葛亮が劉備とは別々に葬られたのかを考えてみます。

 

司馬懿と曹丕の墓は同じく首陽山にある

曹操のお墓(曹操高陵)

 

諸葛亮の墓について考える前に最大のライバルだった司馬懿の墓はどうだったか考えると、司馬懿は曹丕と同じ首陽山(しゅようざん)に墓を築いたらしい事が伝わっています。

 

司馬懿を引き立てたのは曹操よりも曹丕ですから、曹丕の墓の近くに司馬懿の墓があるのは、特別に違和感を感じません。もっとも曹丕は陪葬(ばいそう)を認めなかったらしいので、近くに司馬懿の墓があるのは曹丕の許しを得ての事ではない可能性もあります。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

でも、三顧(さんこ)の礼で迎えられ劉備の意志を継ぐ為に五度の北伐を為した諸葛孔明なら、同じ山ではないにしてもせめて同じ成都に墓があっても不思議ではない筈。それなのに、なんで遠く離れた漢中の定軍山に墓があるのでしょうか?

 

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仮説1劉備が嫌いになった

孔明

 

考えられる説としては、諸葛孔明は晩年の劉備に嫌気(いやけ)が差したというのがあります。三国志演義では、出会いから別れまで蜜月のように見える劉備と孔明ですが、入蜀を果たした劉備は益州の人士である法正にゾッコン惚れこんでいました。

 

法正

 

法正は切れ者で巧みな軍才を持つ人でしたが執念深く、恩義には僅かな恩義でも必ず報い、恨みには髪の毛一筋の取るに足らない恨みでも必ず報復する苛烈(かれつ)な性格です。

 

死神の目を使ってバカチンノートに書き込む法正

 

ついには蜀郡の太守となり、かつて自分に恥をかかせた人間数名を何の法律にも基づかず、恣に殺害しましたが、諸葛亮はそんな法正を注意したりしませんでした。それもこれも、法正が劉備の信任が絶大な功臣だったからです。

 

一方で劉備は、孔明の(いさ)めも聞かずに関羽の弔い合戦で呉に攻め込んで陸遜に大敗するなど、孔明に負の遺産を残しまくりました。

 

ラブラブな孔明と劉備に嫉妬する張飛と関羽

 

その中で水魚の交わりも色褪せ、死んだ後は劉備の近くにはいたくないという思いから成都から遠く離れた定軍山に墓を築いたのではないでしょうか?

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

仮説2 蜀を守る為に死んで盾になろうとした

北方謙三 ハードボイルドな孔明

 

諸葛亮の墓が劉備から遠く離れた場所にある理由には、もう1つ諸葛孔明が志半ばで散ったという事も影響している可能性があります。孔明は蜀を維持するだけでは足りず、滅魏興漢(めつぎこうかん)、すなわち魏を滅ぼして漢を再興するという狂気に似た信念を劉備から受け継いでいました。

 

しかし、魏を滅ぼして中原を回復するという悲願は達成できず、孔明は

 

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

(このままでは、あの世で先帝に顔向けできぬ。私の遺骸は定軍山に埋葬せよ。死して後も鬼となって蜀を守り、後を受け継ぎ魏を滅ぼさんとする者を助けよう)

 

こんな風に考え、劉備の遺志を達成していない事を理由に成都に葬られる事を拒否したのかも知れません。

 

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仮説3 肉体は漢中に魂は劉備の傍にある

はじ三倶楽部 スマホでオンライン雑談会に参加する読者

 

今回の記事を読んだ人は、最初、違和感を持ったかも知れません。

 

「あれ?孔明の墓は武侯祠(ぶこうし)でちゃんと成都にあるんじゃないの?」

 

確かに成都には諸葛亮の武侯祠があり、さらに武侯祠の中には劉備の墳墓恵陵があります。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

それを知っている人は、劉備と孔明はセットで葬られていると思った事でしょう。しかし、武侯祠はあくまで(ほこら)であって、そこに諸葛孔明の骨はありません。そもそも武侯祠は成都だけでなく中国には何か所もあるので、そこに孔明の骨がないのは当然と言えば当然なのです。

 

でも、これについてはこう考える事も可能でしょう。諸葛亮の肉体は、今でも蜀を守る為に定軍山で外敵に睨みをきかせていて、その魂は劉備と共にあり、死後も補佐しているのだと…これは、仮説3の方が今まででは、一番キレイな話になりますね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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