諸葛亮はなぜ劉備の墓がある成都ではなく定軍山に葬られたのか?

2021年8月1日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

過労死する諸葛孔明

 

西暦234年、蜀の丞相諸葛亮(じょうしょう・しょかつりょう)は五度目の北伐で司馬懿(しばい)に敗れ失意の内に五丈原で陣没します。そんな孔明の柩(ひつぎ)は当然、劉備も眠る成都に埋葬されるかと思いきや、外ならぬ諸葛孔明の遺言で定軍山に葬られてしまいました。

 

kawausoさん

 

オウ!マイガッ!水魚の交わり君臣の絆は永遠ではなかったのか?

今回は、どうして諸葛亮が劉備とは別々に葬られたのかを考えてみます。

 

司馬懿と曹丕の墓は同じく首陽山にある

曹操のお墓(曹操高陵)

 

諸葛亮の墓について考える前に最大のライバルだった司馬懿の墓はどうだったか考えると、司馬懿は曹丕と同じ首陽山(しゅようざん)に墓を築いたらしい事が伝わっています。

 

司馬懿を引き立てたのは曹操よりも曹丕ですから、曹丕の墓の近くに司馬懿の墓があるのは、特別に違和感を感じません。もっとも曹丕は陪葬(ばいそう)を認めなかったらしいので、近くに司馬懿の墓があるのは曹丕の許しを得ての事ではない可能性もあります。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

でも、三顧(さんこ)の礼で迎えられ劉備の意志を継ぐ為に五度の北伐を為した諸葛孔明なら、同じ山ではないにしてもせめて同じ成都に墓があっても不思議ではない筈。それなのに、なんで遠く離れた漢中の定軍山に墓があるのでしょうか?

 

関連記事:司馬懿の「野心家」イメージはどこから生まれた?

関連記事:司馬懿の遺言はどのような内容だったの?司馬懿は曹丕が大好きだった?

 

仮説1劉備が嫌いになった

孔明

 

考えられる説としては、諸葛孔明は晩年の劉備に嫌気(いやけ)が差したというのがあります。三国志演義では、出会いから別れまで蜜月のように見える劉備と孔明ですが、入蜀を果たした劉備は益州の人士である法正にゾッコン惚れこんでいました。

 

法正

 

法正は切れ者で巧みな軍才を持つ人でしたが執念深く、恩義には僅かな恩義でも必ず報い、恨みには髪の毛一筋の取るに足らない恨みでも必ず報復する苛烈(かれつ)な性格です。

 

死神の目を使ってバカチンノートに書き込む法正

 

ついには蜀郡の太守となり、かつて自分に恥をかかせた人間数名を何の法律にも基づかず、恣に殺害しましたが、諸葛亮はそんな法正を注意したりしませんでした。それもこれも、法正が劉備の信任が絶大な功臣だったからです。

 

一方で劉備は、孔明の諫(いさ)めも聞かずに関羽の弔い合戦で呉に攻め込んで陸遜に大敗するなど、孔明に負の遺産を残しまくりました。

 

ラブラブな孔明と劉備に嫉妬する張飛と関羽

 

その中で水魚の交わりも色褪せ、死んだ後は劉備の近くにはいたくないという思いから成都から遠く離れた定軍山に墓を築いたのではないでしょうか?

 

関連記事:龐統と法正は協力し劉備の蜀獲りに参加していた?その役割分担に迫る!

関連記事:法正は名軍師だったの?性格が最悪な徳性なき蜀の天才参謀

 

【北伐の真実に迫る】

北伐

 

仮説2 蜀を守る為に死んで盾になろうとした

北方謙三 ハードボイルドな孔明

 

諸葛亮の墓が劉備から遠く離れた場所にある理由には、もう1つ諸葛孔明が志半ばで散ったという事も影響している可能性があります。孔明は蜀を維持するだけでは足りず、滅魏興漢(めつぎこうかん)、すなわち魏を滅ぼして漢を再興するという狂気に似た信念を劉備から受け継いでいました。

 

しかし、魏を滅ぼして中原を回復するという悲願は達成できず、孔明は

 

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

(このままでは、あの世で先帝に顔向けできぬ。私の遺骸は定軍山に埋葬せよ。死して後も鬼となって蜀を守り、後を受け継ぎ魏を滅ぼさんとする者を助けよう)

 

こんな風に考え、劉備の遺志を達成していない事を理由に成都に葬られる事を拒否したのかも知れません。

 

関連記事:【定軍山の戦い】法正たちが大活躍!夏侯淵っていつのまに死んじゃった?

関連記事:曹真大雨に泣く!蜀を滅ぼす好機を逸した子午の役

 

仮説3 肉体は漢中に魂は劉備の傍にある

はじ三倶楽部 スマホでオンライン雑談会に参加する読者

 

今回の記事を読んだ人は、最初、違和感を持ったかも知れません。

 

「あれ?孔明の墓は武侯祠(ぶこうし)でちゃんと成都にあるんじゃないの?」

 

確かに成都には諸葛亮の武侯祠があり、さらに武侯祠の中には劉備の墳墓恵陵があります。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

それを知っている人は、劉備と孔明はセットで葬られていると思った事でしょう。しかし、武侯祠はあくまで祠(ほこら)であって、そこに諸葛孔明の骨はありません。そもそも武侯祠は成都だけでなく中国には何か所もあるので、そこに孔明の骨がないのは当然と言えば当然なのです。

 

でも、これについてはこう考える事も可能でしょう。諸葛亮の肉体は、今でも蜀を守る為に定軍山で外敵に睨みをきかせていて、その魂は劉備と共にあり、死後も補佐しているのだと…これは、仮説3の方が今まででは、一番キレイな話になりますね。

 

関連記事:劉備の墓は三国時代どこにあったの?またいつ亡くなったの?

関連記事:諸葛孔明の遺産はどのくらい残った?

実は劉備も孔明も知らない所で全てが決まった

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

実は、この武侯祠のある場所、蜀漢が滅亡した時まで劉備の墓しかありませんでした。ところが、蜀が滅亡してから40年余り後に、成漢(せいかん)を建国した李雄(りゆう)が現在の場所に諸葛孔明の霊を祀る武侯祠を築いたのです。

 

孔明

 

やがて劉備の墓と諸葛亮の祠は、三国志演義の影響もあってか明の時代になると、劉備の墓が孔明の武侯祠に吸収される形で一体化されてしまったのです

 

三国志演義_書類

 

と言う事は李雄が武侯祠を劉備の墓の近くに建立しなかったら、今でも劉備の墓と諸葛亮の墓は別々のまま存続し続けたかも知れませんね。夢が壊れてしまいますが、歴史というのは案外そんなものなのでしょう。

 

関連記事:北方謙三『三国志』の馬謖は姜維を蜀に帰順させ調略も得意な諸葛亮の右腕

関連記事:武廟十哲に諸葛孔明が選ばれている理由は何?中国名将ランキングを推察

 

武侯祠が出来たのは蜀漢の末期

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

劉備の墓と孔明の廟というセットは成漢の李雄のアイデアと言いましたが、実際には李雄がやらなくても遅かれ早かれ成都には、武侯祠が建てられ、劉備の墓と混ざったかも知れません。

 

襄陽記(じょうようき)には、孔明没後、その遺徳(いとく)を偲んで庶民が成都に孔明の廟(びょう)を建てるように請願が相次いだとされています。

 

しかし、当時の朝廷は、家臣に過ぎない諸葛孔明の廟を建てるのは君臣の別を危うくするとして反対して請願を拒否しました。すると蜀の人々は、勝手に道端に諸葛孔明の祠を建てて祀り始めてしまったのです。

 

劉禅から勅令が届き、鍾会に降伏する姜維

 

そこで劉禅は折衷案を取り、武侯祠を成都でもなく定軍山でもなく漢水の北に建てました。これは正しく魏との国境線であり、諸葛亮の霊力に劉禅以下蜀の朝廷が情なくも縋っていた証拠とも言えます。

 

こういう前例があったので、李雄は武侯祠を成都に建てようとしたのかも知れず、遅かれ早かれ武侯祠は劉備の墳墓の近くに出来、やがてそれを飲み込む運命だったかも知れませんね。

 

関連記事:【三国志を斬る】劉禅は自ら政務を執った能動的君主だった!

関連記事:司馬炎と劉禅は似た者同士?その理由とは?

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は、諸葛孔明はどうして、成都ではなく定軍山に葬られているのか考えてみました。思えば定軍山で魏の夏侯淵を黄忠が討ち取った頃が、劉備軍団の全盛期のような気がするので、孔明はその頃の元気な劉備軍団の時代を懐かしんで、定軍山に遺骸を埋めたのかなと思えてきました。

 

まさか、定軍山の大戦果から10年の間に五虎大将が全部死に劉備も鬼籍(きせき)に入るなんて、さしもの諸葛孔明も考えなかったでしょうから…

 

参考文献:正史三国志

 

関連記事:諸葛孔明は実在しない?衝撃の孔明非実在説とはどんな内容なの?

関連記事:三国志の名政治家、諸葛孔明が無謀な北伐を繰り返した理由とは?

 

『伝説の企画 朝まで三国志 最強の軍師は誰だ』

朝まで三国志2

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

-諸葛亮
-, ,