北宋・南宋 歩人甲
宋の時代は、女真族が建国した金や契丹族の遼のような騎馬民族王朝に脅かされました。さらには、それらの遊牧民族に軍馬の供給源を断たれていた事から宋は、ひたすらに鎧で全身を覆う重装歩兵で騎馬民族に対抗するようになります。
こうして誕生したのが歩人甲であり、1825枚もの鉄片を綴って頭の鉄片から足の脛までをカバーしていて、ひたすらに前進して槍を振り回し強弩を放つ鉄の軍団となり、精強な騎馬民族を度々撃退しています。
しかし歩人甲の重さは軽くしても30㎏近くになり、折角騎馬民族に勝利しても馬で退却する敵を追撃する事は不可能でした。
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明 鎖子甲・綿襖甲
モンゴル民族の元王朝をモンゴル高原に追いやり建国された漢民族の明王朝は元王朝の軍制と鎧を取り入れつつ、宋の時代以前の王朝の鎧も採用しています。
その中で唐の時代に西方から伝来した鎖子甲が採用されました。これは、コイン程度の大きさの鉄製のリングを相互に繋ぎ合わせたのが特徴で、リングには穴が空いていますが小さいので槍や矢は貫通しません。
西洋ではチェインメイルと呼ばれ、日本でも鎖帷子と呼ばれ室町時代に導入され、衣服や鎧の下に着て防弾チョッキのように使用しました。鎖子甲は、肌の露出が多いので、火砲のような熱兵器への防備は弱いですがとても軽く通気性がいいので鎧と併用して利用しています。
もう1つの鎧は綿襖甲です。こちらは分厚い綿や絹の布地の中に鉄の甲片を仕込み、銅製の鋲で打ち付け固定しました。綿襖甲の場合、鉄札は裏地に仕込むので表面は色鮮やかな刺繍が可能であり、ロングコートのように全身を覆うので防寒性に優れていて北方の寒冷地で使用されます。
同時に綿襖甲は、火砲のような火器からも全身を守れる高い防御力を持つので、寒冷地に住むモンゴルや女真族が好んで装備し、女真族が建国した清でも正式採用されました。
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三国志ライターkawausoの独り言
以上、三国志番外編として殷の時代からの鎧の変遷を具体的に解説しました。こうしてみると中国の鎧は主として騎馬民族との抗争が激しかった前漢や宋の時代に進歩した事が分かります。
特に宋で誕生した歩人甲は、全身をくまなく鉄で覆い矢も鉄砲も通らない完璧な鎧でしたが、あまりの重量の為に追撃する事が出来ず、ヒット&アウェイの騎兵相手には決定打が打てなかったのが弱点でしたね。
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