
ヌルハチは旧満州に勢力を張った遊牧騎馬民族建州女真の部族長です。
成長すると13部に分かれて激しく抗争していた女真を統合し後金国を建国しました。その後、明王朝と激しく戦いますが寧遼城の戦いで敗れ負傷が元で病死しました。
しかし、明との戦いはヌルハチの子や孫に引き継がれ、遂には明を打倒し最後の中国王朝清を建国する事になります。今回は女真の英雄、ヌルハチの生涯について解説しましょう。
この記事の目次
9歳で実母を亡くし14歳で家出する

ヌルハチは嘉靖38年(1559年)建州女真スクスフ部に愛新覚羅氏タクシの長男として誕生します。彼が産まれた頃の女真は建州女真5部、海西女真四部、野人女真4部の13部に部族が分かれ互いに抗争していました。
これは女真が統一される事を恐れた明王朝が、朝貢の権利を分散せせることで飛びぬけて強い部族を出さないようにしていた為です。
ヌルハチは生まれつき聡明で力が強く武術を好み、働き者だったので両親に可愛がられました。しかし、ヌルハチが9歳の時、母のエメチが病死、父タクシは継母を迎えますがヌルハチとは折り合いが悪く、ヌルハチはガマンできなくなり14歳の時に家出し、母方の祖父のワンカオの下に身を寄せます。
ワンカオは都督の地位にあり漢字を読む事が出来、文武に秀でた部将であり、同じく武芸に秀でたヌルハチを可愛がりました。ところがワンカオは明の圧政に反発して挙兵しますが惨敗して捕らわれ殺されます。この時ヌルハチも捕らえられますが、どうにか逃げ切り父が住む故郷に戻りました。
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再び家出し李成梁の部将となる
故郷に帰ったヌルハチはタブンバヤンの娘、ハハナ・ジャチンと結婚しますが父の後妻と父に冷遇され再び家出します。以後は、独立世帯での暮らしになり、高麗人参や薬草を採取して細々と生計を立てますが、その暮らしに満足できないヌルハチは一念発起。
武将になって手柄を立てようと、遼東総兵、李成梁の部下になります。屈強な肉体と乗馬と弓術に優れたヌルハチは、すぐに指揮官、李成梁の目に留まり引き立てを受けるようになりました。李成梁の部下だった頃、ヌルハチは漢字を覚え三国志演義や水滸伝を愛読し、義侠心や人情の機微を見る事を覚え、後の戦略に役立てたそうです。
ニカンワイランの姦計で父と祖父が殺害
1583年、李成梁の軍勢が建州右衛の古城を攻めます。理由は城主のアタイが父のワンカオ殺害に憤慨して兵を挙げたからでした。アタイの妻はヌルハチの祖父、ギオチャンガの孫娘でヌルハチの従妹であり、ギオチャンガとタクシは城に入り、アタイに孫娘を戻すように説得します。
しかし、その時、ヌルハチと同じスクスフ部のニカンワイランが明軍を手引きしタクシを殺害、さらにニカンワイランは勢力を伸ばす為、捕らえた無関係なタクシとギオチャンガまで殺害しました。
父と祖父が殺された事を知ったヌルハチは、李成梁に詰め寄り、無関係な父と祖父を殺害した事を詰ります。李成梁は処刑を後悔し、ヌルハチを慰撫するために、20通の交易許可証と20頭の馬を与え、左衛指揮史に任命しました。
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敵対する親族を倒しスクスフ部の首長になる
李成梁はヌルハチを厚遇する一方で、ニカンワイランもスクスフ部の首長として重用しました。ニカンワイランは、重用に気をよくしてヌルハチにも服属を要求しますがヌルハチは当然拒否します。
一方でヌルハチの従兄弟やその息子には、ヌルハチがギオチャンガの後継者になった事をよく思わない者がいてニカンワイランと手を結びました。これに対し、サルフ城のノミナ、ギャフム城のガハシャンなどがヌルハチの味方になりますが、多くても軍勢は100人程度です。
ヌルハチは、ニカンワイランをトゥルン城に攻めますが、実際はニカンワイランとノミナは内通しており、ニカンワイランは城を抜け出していました。同年8月にヌルハチはギヤバン城を攻めますが、またニカンワイランは逃亡し、オルホン城に落ち延びます。
ここでヌルハチは内通に気づき、ノミナに甲冑や武器を貸して欲しいと依頼、ノミナが武器を貸すとヌルハチは隙を見てノミナを殺害しサルフ城を占領します。
ところがジョーギヤ城のリダイとギオチャンガの息子の子孫がヌルハチ配下のフジサイを襲撃したのでニカンワイラン襲撃は中止しました。その後、ヌルハチの一族の争いはヌルハチが勝利する形で1583年に終結します。
ニカンワイランを斬首
ドンゴ部の族長アハイは、スクスフ部をまとめたヌルハチを恐れて攻撃しようとしますが、ヌルハチに気づかれました。ヌルハチはアハイの居城、チギタ城を攻めますが、城を落とせずに引き返し、途中にオンゴロ城を攻めますが負傷してヘトゥアラに帰還しました。
傷が癒えたヌルハチは、オンゴロ城を攻撃して落とし、1585年2月ジャフィヤン城を攻撃しジャフィアン、サルフ、ドゥンギャ、バルダ連合軍を破り4月にはトモホ、ジャンギャ、ジャフィアン、サルフ、バルダ城の連合軍を降し、9月にはフネへ部を攻略して急激に勢力を伸ばします。
1586年7月、ヌルハチはニカンワイランの居城を攻めます。逃げ場がないニカンワイランは明軍に庇護を頼み、ヌルハチは引き渡しを求めました。明軍はすでにニカンワイランに利用価値はないと見てヌルハチに引き渡し、ニカンワイランはヌルハチの手で斬首されます。
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海西女真との抗争
1589年、海西女真のフルン四部の一つ、イェへ部首長のナリンブルがフルンの盟主となり女真を統一しようとしヌルハチに帰順を求めますが、ヌルハチはこれを無視、両者は対立を深めていきました。
この時期の明王朝は、日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺され女真への介入は少なく、明と日本が戦っている間に建州女真と海西女真の争いは激しさを増していきます。
イェヘ部の首長のナリンブルは1593年6月、ハダ部、ウラ部、ホイファ部と連合軍を結成して建州女真を攻めますが、すでに待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗しました。
同年の9月、再びナリンブルはハダ部、ウラ部、ホイファ部、ジュシェリ部、ネイェン部、シベ部、グワルチャ部、ノン・コルチン部と9部連合軍を結成。3万の大軍を繰り出し、3方面からヌルハチを攻撃します。
9部連合軍が建州の城を攻めている間、ヌルハチは、スクスフ河北岸のグレ山の山影に精鋭を伏兵し、ヌルハチはわずか100騎で9部連合軍に奇襲して逃亡するフリをしました。
勢いづいた9部連合が追撃すると、グレ山のヌルハチの伏兵が背後から襲い掛かり、9部連合軍は包囲され殲滅。この戦いで海西女真と建州女真の勢力が逆転します。女真の諸部族は、ヌルハチに従う者が多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けました。
ハダ部を計略で落とす
その後アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略に取り掛かります。ハダ部もイェへとマンジュ国の間で板挟みの状態にあり、1599年5月、イェへ部のナリンブルはハダ部の攻撃を開始。
ハダ部の首長メンゲブルは人質と共にヌルハチに援軍の要請を送りました。ヌルハチはこれに応じてシュルガチ と2000の兵を差し向けますが、突然自ら兵を率いてハダを攻撃。メンゲブルを騙し討ちにし捕虜にします。
メンゲブルはその後、妾と通じたという罪で死刑になり、ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連行しハダ部は滅びました。ハダ部は明王朝の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけます。
そこでヌルハチは、メンゲブルの長子ウルグダイとハダの住民を元の地に帰しますが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返し結局ハダの住民はマンジュ国に戻されることになりました。
メンゲブルの子、ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなくヌルハチの忠臣として活躍します。
ウラ部ブジャンタイを滅ぼす
西暦1607年、ホイファ部も内乱に乗じてヌルハチに制圧され滅亡。日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を持ち、海西女真のイェヘ部の後押ししてヌルハチに対抗しようとします。
ヌルハチはウラ部の首長ブジャンタイに対し、娘を嫁がせるなど懐柔しますが内心は快く思っていませんでした。ブジャンタイも裏ではイェへと関係を結んでいました。
1607年1月、ウラ部がワルカ地方のフィオ城を攻めた際、ワルカはヌルハチに助けを求め、ヌルハチはこれに応じ弟シュルガチを派遣しました。
同年3月、ブジャンタイとシュルガチの軍が烏碣巌で衝突しシュルガチが大勝、その後、ブジャンタイは和睦に応じます。ブジャンタイは、この腹いせに自分の妻でヌルハチの娘のムクシを虐待、これに激怒したヌルハチは1613年1月にウラを滅亡させ、イェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れます。
弟シュルガチを幽閉
ウラ部攻略で大功を挙げたシュルガチですが、次第にヌルハチとの仲が悪化します。権力を握ったヌルハチの自分への態度が尊大になることにシュルガチは不満を覚え、またヌルハチも、自分の言うことを聞かないシュルガチに対して不満を覚えます。
そこで、ウラ部攻略で戦い方が消極的だったとヌルハチはシュルガチの兵権を縮小。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令しますが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築きます。
シュルガチは3人の息子と密謀しヌルハチを見限りイェへと明朝へと近づくことします。これがヌルハチに知られ、シュルガチは財産を没収され2人の息子が殺害されました。
シュルガチは謝罪し許しを請い、ヌルハチは一度許そうとしますが、シュルガチが恨みごとを言っていると耳にし取りやめ、幽閉して死に追い込みました。
ヌルハチ、後金を建国しハンとなる
女真の大首長ヌルハチは、さらに海西女真、野人女真にも攻撃を仕掛け、次々と攻略して支配下に組み込んでいきました。こうして、建州女真を統一してから17年の間に、
ヌルハチは海西、野人女真を悉く併合して万暦44年(1616年)ヘトゥアラでハンの位に就き、国号を後金とし元号を天命とします。同時にヌルハチは八旗という軍事組織を編制、またモンゴル文字を改良した満洲文字を制定し、後の清朝の基盤を整備します。そして、天命3年(1618年)ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻める事を決定。正式に明王朝に反旗を翻しました。
イエヘ部を統合し女真族統一に成功
ヌルハチは明の庇護を受けていたイエヘ周辺の諸城を攻撃、李永芳が守る撫順城は1000名ほどの兵力でしたが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知し隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させ清河城を陥落させます。
1619年4月29日、明はイエヘ部と朝鮮の兵を配下に47万人と総大将楊鎬を置き軍を杜松軍3万、馬林軍1万五千、李如柏2万5千、劉綎軍1万の4つに分けて、四路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させます。こうして、撫順近くのサルフで明と10万を号する後金軍が激突しました。
実際の後金軍は5万程度だったようですが、明の将軍が功を焦って突出したので各個撃破が可能だった事と、戦闘中に塵が舞い上がりこれに乗じて明へ奇襲を掛けて成功し、後金が大勝利します。明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5カ月で長年の宿敵、イエヘを統合し悲願だった全女真族の統一に成功しました。
瀋陽城を攻略
サルフの戦いの後、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼でした。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡で遼東における後金の有利は決定的であり兵士の士気も低く、モンゴルもヌルハチを恐れ明に味方しません。
遼東は治安も悪く農民も田畑を捨ててしまい社会混乱が頻発。熊廷弼は、状況を考えて守勢に回り18万人の兵を訓練して士気を高め、歴史的経緯から女真族と敵対する李氏朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制します。
この方針で、農民は耕作を再開したものの朝廷には熊廷弼が弱腰と映り更迭、袁応泰が次の司令官になりました。袁応泰は積極策に出て、撫順と清河を奪い返す作戦を立てますが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲。
城の守将の賀世賢に挑発を繰り返し、深追いしたところを包囲殲滅させました。大砲と銃で守られていた瀋陽城を素早く攻略できたのは、賀世賢に不満を持っていたモンゴル人兵が後金に内応して中から城を開いたからだそうです。
袁応泰を破る
袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固め、城が堅いと認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけます。袁応泰はヌルハチの計略に引っ掛かり、5万の兵を出して野戦で交戦し敗北しました。
ヌルハチは、さらに遼陽城を攻めるも攻城は難かしく、一計を案じて、東の入水口を土濠で塞ぎ排水口を開こうとします。そこへ、明兵が出てきて両軍が激突、橋を奪取した後金軍は、梯子をかけて城に侵入、袁応泰は自害しました。
遼陽は、明、朝鮮、モンゴルに近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も豊富でヌルハチはここを本拠地とします。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチですが、この2つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残しました。
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熊廷弼と三方布置策
瀋陽と遼陽を失った明では、過去に遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任の声が上がり、再び返り咲く事になります。1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は「三方布置策」という遼陽奪還策を提言します。
三方布置策は、広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて守りを固め、天津と山東半島の登州と莱州に水軍を設置して、後金の動きの隙をついて遼東半島を攻撃、遼東経路は山海関を本営として全般の指揮を執るというものでした。
こうすればヌルハチは故郷の本拠地が気になり兵力が分散されるので隙をついて遼陽を回復できるというわけです。天啓帝はこのプランを採用し熊廷弼を経略に起用します。
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意見対立から熊廷弼と王化貞が敗北
ところが、熊廷弼は遼東巡撫、王化貞と意見がたびたび衝突。また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持つので合力して戦えませんでした。さらに王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語して後金を侮り、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化貞配下の名将毛文龍が後金から鎮江を奪還してしまったことで崩れてしまいます。
1622年1月、ヌルハチは熊廷弼と王化貞の争いに乗じて、重要拠点の一つ広寧を5万の大軍で攻めます。しかし、広寧城の守備は堅いのでまず、西平堡を攻めて明軍を誘い出し野戦に持ち込みました。
王化貞に派遣された将軍劉渠は戦死し、もう1人の孫得功は剃髪しヌルハチに降伏します。後金軍はこの戦いに勢いづき、遼河以西四十の城を落とし遼西で略奪し、遼東の食料不足を解消します。
将軍王化貞は速やかに逃亡して熊廷弼と合流し山海関に退却しますが、この責任を問われ1632年に死刑に処されます。熊廷弼も同じく責任を問われ、王化貞に先んじて1625年に死刑になりました。
王化貞はともかく、熊廷弼を死刑にする必要はないような気もしますが…
袁崇煥に生涯最大の大敗
この頃ヌルハチは、王化貞の配下毛文龍のゲリラ攻撃にも苦しみ後金領内の漢人との文化的な軋轢が起きて国内問題に腐心します。
天命11年(1626年)連戦連勝のヌルハチは、明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようと考えました。ところが手前の寧遠城では将軍袁崇煥がポルトガル製大砲の紅夷大砲を大量に並べて後金軍に備えていたのです。ヌルハチは袁崇煥の名声を聞き、降伏を勧告し高位につかせると約束しますが袁崇煥は拒否しました。
寧遠城の明軍は1万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民を登用して総動員、袁崇煥は、まもなく援軍が来ると農民を激励し士気を鼓舞していました。明軍の徹底抗戦と11門の紅夷大砲の破壊力の前に後金軍は散々破られ退却します。
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覚華島攻略中に背中を負傷し病死
ヌルハチはここまで大敗した事がなく、人生最初にして最後の挫折でした。このまま退却すると権威が失墜すると恐れたヌルハチは、覚華島を攻撃し食料と軍船2千を焼き払います。
しかし、この戦いの最中、ヌルハチは背中を負傷、傷は重くなり1626年8月11日に享年68で没しました。ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に後金王朝は紛糾しますが、第8子のホンタイジが後継者となり、明王朝打倒に突き進んでいきます。
世界史ライターkawausoの独り言
建州女真の小さな部族から出て来たヌルハチは、武勇と知略に秀でて、明の将軍、李成梁に仕えて、その庇護を受けて建州女真を統一しました。
その後は、秀吉の朝鮮出兵があり、明王朝が手一杯になった隙を突いて、海西女真、野人女真を得意の伏兵や知略を用いて次々と服属させ、ついには女真を統一して後金王朝を起こし、明王朝に反旗を翻します。
最期は西洋の大砲を多く備えた名将、袁崇煥に敗れ背中に受けた負傷で還らぬ人となりますが、中国最後の王朝の土台を築いたチンギス・ハーン以来の英傑と言えるでしょう。
参考:wikipedhia
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