ヌルハチとはどんな人?最後の中国王朝、清建国の父の生涯


 

女真族は辮髪

 

ヌルハチは旧満州に勢力を張った遊牧騎馬民族建州女真(ゆうぼくきばみんぞくけんしゅうじょしん)の部族長です。

 

成長すると13部に分かれて激しく抗争していた女真を統合し後金(こうきん)国を建国しました。その後、明王朝と激しく戦いますが寧遼城(ねいりょうじょう)の戦いで敗れ負傷が元で病死しました。

 

しかし、明との戦いはヌルハチの子や孫に引き継がれ、遂には明を打倒し最後の中国王朝清を建国する事になります。今回は女真の英雄、ヌルハチの生涯について解説しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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9歳で実母を亡くし14歳で家出する

孔明のテントがある野外のシーン

 

ヌルハチは嘉靖(かせい)38年(1559年)建州女真スクスフ部に愛新覚羅氏(あいしんかくらし)タクシの長男として誕生します。彼が産まれた頃の女真は建州女真5部、海西女真四部、野人女真4部の13部に部族が分かれ互いに抗争していました。

 

これは女真が統一される事を恐れた明王朝が、朝貢の権利を分散せせることで飛びぬけて強い部族を出さないようにしていた為です。

 

ヌルハチは生まれつき聡明で力が強く武術を好み、働き者だったので両親に可愛がられました。しかし、ヌルハチが9歳の時、母のエメチが病死、父タクシは継母を迎えますがヌルハチとは折り合いが悪く、ヌルハチはガマンできなくなり14歳の時に家出し、母方の祖父のワンカオの下に身を寄せます。

 

ワンカオは都督の地位にあり漢字を読む事が出来、文武に秀でた部将であり、同じく武芸に秀でたヌルハチを可愛がりました。ところがワンカオは明の圧政に反発して挙兵しますが惨敗して捕らわれ殺されます。この時ヌルハチも捕らえられますが、どうにか逃げ切り父が住む故郷に戻りました。

 

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再び家出し李成梁の部将となる

「金」の国旗をバックとした兵士

 

故郷に帰ったヌルハチはタブンバヤンの娘、ハハナ・ジャチンと結婚しますが父の後妻と父に冷遇され再び家出します。以後は、独立世帯での暮らしになり、高麗人参や薬草を採取して細々と生計を立てますが、その暮らしに満足できないヌルハチは一念発起。

 

武将になって手柄を立てようと、遼東総兵、李成梁(りせいりょう)の部下になります。屈強な肉体と乗馬と弓術に優れたヌルハチは、すぐに指揮官、李成梁の目に留まり引き立てを受けるようになりました。李成梁の部下だった頃、ヌルハチは漢字を覚え三国志演義や水滸伝を愛読し、義侠心や人情の機微を見る事を覚え、後の戦略に役立てたそうです。

 

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ニカンワイランの姦計で父と祖父が殺害

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

1583年、李成梁の軍勢が建州右衛の古城を攻めます。理由は城主のアタイが父のワンカオ殺害に憤慨して兵を挙げたからでした。アタイの妻はヌルハチの祖父、ギオチャンガの孫娘でヌルハチの従妹であり、ギオチャンガとタクシは城に入り、アタイに孫娘を戻すように説得します。

 

しかし、その時、ヌルハチと同じスクスフ部のニカンワイランが明軍を手引きしタクシを殺害、さらにニカンワイランは勢力を伸ばす為、捕らえた無関係なタクシとギオチャンガまで殺害しました。

 

父と祖父が殺された事を知ったヌルハチは、李成梁に詰め寄り、無関係な父と祖父を殺害した事を詰ります。李成梁は処刑を後悔し、ヌルハチを慰撫するために、20通の交易許可証と20頭の馬を与え、左衛指揮史に任命しました。

 

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敵対する親族を倒しスクスフ部の首長になる

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

李成梁はヌルハチを厚遇する一方で、ニカンワイランもスクスフ部の首長として重用しました。ニカンワイランは、重用に気をよくしてヌルハチにも服属を要求しますがヌルハチは当然拒否します。

 

一方でヌルハチの従兄弟やその息子には、ヌルハチがギオチャンガの後継者になった事をよく思わない者がいてニカンワイランと手を結びました。これに対し、サルフ城のノミナ、ギャフム城のガハシャンなどがヌルハチの味方になりますが、多くても軍勢は100人程度です。

 

ヌルハチは、ニカンワイランをトゥルン城に攻めますが、実際はニカンワイランとノミナは内通しており、ニカンワイランは城を抜け出していました。同年8月にヌルハチはギヤバン城を攻めますが、またニカンワイランは逃亡し、オルホン城に落ち延びます。

 

ここでヌルハチは内通に気づき、ノミナに甲冑や武器を貸して欲しいと依頼、ノミナが武器を貸すとヌルハチは隙を見てノミナを殺害しサルフ城を占領します。

 

ところがジョーギヤ城のリダイとギオチャンガの息子の子孫がヌルハチ配下のフジサイを襲撃したのでニカンワイラン襲撃は中止しました。その後、ヌルハチの一族の争いはヌルハチが勝利する形で1583年に終結します。

 

ニカンワイランを斬首

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

ドンゴ部の族長アハイは、スクスフ部をまとめたヌルハチを恐れて攻撃しようとしますが、ヌルハチに気づかれました。ヌルハチはアハイの居城、チギタ城を攻めますが、城を落とせずに引き返し、途中にオンゴロ城を攻めますが負傷してヘトゥアラに帰還しました。

 

傷が癒えたヌルハチは、オンゴロ城を攻撃して落とし、1585年2月ジャフィヤン城を攻撃しジャフィアン、サルフ、ドゥンギャ、バルダ連合軍を破り4月にはトモホ、ジャンギャ、ジャフィアン、サルフ、バルダ城の連合軍を降し、9月にはフネへ部を攻略して急激に勢力を伸ばします。

 

1586年7月、ヌルハチはニカンワイランの居城を攻めます。逃げ場がないニカンワイランは明軍に庇護を頼み、ヌルハチは引き渡しを求めました。明軍はすでにニカンワイランに利用価値はないと見てヌルハチに引き渡し、ニカンワイランはヌルハチの手で斬首されます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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